バンコク今昔物語(9)

今回のバンコク旅行を決めたのは9月であった。したがって、元王妃の御逝去に関しては全く想定していなかった。だが、10月24日の訃報に接して以来、バンコクに行った折には是非とも王宮へ行って記帳をしたいという思いでいっぱいであった。何故ならば、2016年10月13日にラーマ9世が崩御された時、その4日後にはバンコクへ飛び、そして、王宮でタイ人に交じって記帳したからである。

私が翻訳した『王朝四代記』(ククリット・プラモート著 全5巻)は、ラーマ5世時代から始まり、ラーマ9世の時代が始まる1946年で終わっている。ラーマ9世の王妃であるシリキット王妃が御逝去されたことで、タイのひとつの時代が終わり、新たなる時代がすでに進んでいることを、今回の8年ぶりのバンコク旅行でしかと見届けることができた。

バンコク今昔物語(8)

元王妃の御棺が安置されている宮殿に近い回廊まで来た時、ピシッと糊のきいた白い帽子と制服の看護師3名が小さなプラスチック容器を皆に配った。容器には、「กองแพทย์หลวง / พิมเสนน้ำ พระราชทาน」と書いてあった。「王室医局 / メンソール入り液体吸入剤 下賜する」という意味である。「長時間、よく頑張りました! この気付け薬で気分一新してくださいね」という配慮がタイらしかった。

いよいよ最後の待機所まで案内されると、「靴を脱ぎなさい。荷物はイスの上に置いておくこと」という指示を受けた。そして、いよいよ御棺の間へと導かれた。「平伏の姿勢を取りなさい」という指示が2回有ったので、皆は2回、体を床につけてひれ伏した。黄金の間に安置された元王妃の御棺とお別れをすると、出口には僧侶が4名、高座に座って読経を唱えていた。その読経はさわやかな風とともに、宮殿の外へとなびき、穏やかな時間が流れていた。

バンコク今昔物語(7)

王宮の門のところで服装チェックが有り、我々はひっかかった。そこで門のすぐ近くにあるエレベーターで地下に降り、黒の巻きスカート(ผ้าถุง)と、同じく黒の上衣を貸してくれるコーナーへ行った。私の場合は、自分で手縫いしたものを日本から用意して行っていたが、同行者二人に合わせたほうがいいと思い、やはり借りることにした。

黒装束に身を包んだ我々は王宮前広場の地下にできている大広間で、タイ人達の中に交じって宮殿に案内されるまでひたすら待った。大広間には撮影スポットが有り、タイ人達は記念写真を撮っていた。もちろん我々も撮影係の人に三人の姿を撮ってもらった。背景は古き良きバンコクの昔の王宮近くの白黒写真だ。まるでラーマ5世時代に引き入れられた感がした。

セキュリティ対策は万全。タイ人達は国民身分証明書を機械にかざす。我々は旅券をかざした上で、さらに係官による旅券チェックがあり、ようやく胸に許可のシールが貼られた。大広間で待つこと2時間余。そして、王宮の門にようやく入ってから宮殿内の御棺の間までさらに30分。50人単位で動かされた。「日本人はだめです」という制限は全く無く、タイ人と同様の扱いを受けたこと、そこにタイ人の優しさと鷹揚な態度を再確認した。

バンコク今昔物語(6)

11月17日(月)、午前10時にホテルを出て、BTSでサパーンタクシン駅まで行き、サートーン船着き場から船に乗った。ターチャーンまでの約15分、チャオプラヤー川の両岸の景色を楽しんだ。船賃は21バーツ(約100円)。

ターチャーンから少し歩くと、王宮の白壁が見えた。交通整理をしている人に「王宮へ行って元王妃にお別れをしたい」と告げると、「ここに来るバスに乗りなさい」と言われた。バスは確かにやって来た。だが、バンコク最古のバスかと言いたいくらいのポンコツであった。

バスには黒服の女性達が数人しか乗らなかった。地方からやって来たらしい。王宮の門近くで降ろされた我々は指示に従って歩く。着いたところは、何と前日行った国立博物館の反対側であった。テントがたくさん張られており、僧侶達もたくさんおられた。これから長い黒服の列に長時間、並ばなければならないかと思うと相当の覚悟を要した。だが、ここでも私の魔法の杖が功を奏した。「カートに乗りなさい」と勧められたので、再び、王宮の門の前までスイスイと行くことができた。

バンコク今昔物語(5)

バンコク2日目の夜はセントラル・ワールド6Fの中華料理店「和成豊」へ行った。元生徒さんが予約してくれていたので、良い席に座ることができた。この夜の会席者は全部で6名。メニューを見ながらいろいろな料理を注文したが、料理がなかなか出て来なかった。唯一、早かったのは点心であった。

従業員を呼んで、「まだ料理が来ない」と言うと、「もう無い หมดแล้ว」とそっけない返事しか返ってこなかった。無いなら無いで、注文した時点で教えてくれればいいのに….。もしかすれば、厨房にオーダーを伝えるのを怠ったのではなかろうか? 注文した料理の半分が無かったのは不思議。

帰国後、この話をタイ人講師に聞かせると、「最近の従業員はミャンマー人が多いですよ」、とのこと。道理で従業員の働く姿勢がいまいちだったのか。いずれにせよ、バンコクで、古顔の元生徒に、今年行ったばかりの新顔の元生徒を紹介できて良かった。 

バンコク今昔物語(4)

バンコク最初の夜はタイ料理と決めていた。翌日の夜、セントラル・ワールド6Fの中華料理店(和成豊)で泰日文化倶楽部の元生徒と食事をする予定が有ったので、その店の下見も兼ねてセントラル・ワールドへ行ったところ、「シーファー สีฟ้า」という懐かしい店が有ったので、そこでパッタイを食べた。

「シーファー」は初めてタイへ行った時(1971年)に、タイ人の友人がシーロムの店に連れて行ってくれた。1936年創業の老舗だ。約90年近くにわたり各地に支店を増やし、よく頑張っている。

店に入ると、「30分待ちですよ。外のイスに座って待っていてください」と、つっけんどんに言われた。そこで我々は一旦外に出てイスを探した。すると、店の人が手招きをするではないか。どうやら私の杖に気づいたようだ。かくして我々はスイスイとテーブルを確保できた。

バンコク今昔物語(3)

11月16日(日)、午前10時に、懇意にしている元タイ人講師の息子さん(サン君)が車で我々を国立博物館へ連れて行ってくれた。彼は私の家に50日もホームステイしたことがあるので、孫みたいな存在だ。

バンコク見物はやはり王宮前広場近くの国立博物館から開始と決めていた。しかし、元王妃の葬儀準備中の王宮前広場の様子も知りたかったので一石二鳥。切符売り場でシニア料金を希望したところ、タイ人の国民身分証の提示を求められた。日本人だと言うと、外国人にはシニアのサービスが適用されないと言われ残念。

国立博物館での鑑賞時間は1時間半だけと決め、サン君に12時に迎えを頼んだ。しかし11時50分頃、彼から電話が有り、駐車違反で捕まったから警察署に行って罰金を支払わなければならなくなったと言われどきりとした。あとで聞いた話だが、彼はトイレに行くため、警察官に許可を求めて駐車した。だが車に戻って来た時には前輪のタイヤがロックされており、別の警察官が警察署まで行って罰金千バーツを支払えと言ったそうである。しかし、「今、ここで支払えば500バーツでいい」と常套句。昔も今も全く同じだ。話を聞かされた老女3名は、サン君がかわいそうなので500バーツを彼に手渡した。

バンコク今昔物語(2)

バンコクは8年ぶり。コロナ禍以降、早く来たかったものの、なかなか時間が取れずにいた。今回は華道講師の他に、泰日文化倶楽部の現役の生徒さんが一人、同行したので、高齢者3名のツアーとなった。行きたいところをあらかじめ二人に尋ねた上で、私が旅行プランを練った。各自、旅の目的が異なっていたが、そこを何とかうまくまとめ、結果としてはそれぞれに100%に近い満足感を覚えることが出来た。

宿泊先はエラワン廟近くのホテルを選んだ。隣りがBig Cで、道路を隔てた向かい側がCentral World という非常に立地条件に恵まれたところ。このホテルは華道講師が好きなホテルであり、私にとっても思い出のあるホテルであった。

バンコク今昔物語(1)

11月15日10時35分、羽田を飛び立ち、15時過ぎ(現地時間)にスワンナプーム空港に到着。入管審査のため外国人用レーンに並んでいたら、私を手招きする係官が目にとまった。私の杖を見たからであろう。

彼のそばに行くと、突然、タイ語で年齢を聞かれた。「79歳」の「9 ガーオ」を強調して答えると、Priorityのレーンに行けと指示された。TDAC(タイのデジタル入国カード)を済ませているのでスイスイと通過できると思いきや、従来通り、時間がかかった。何故ならば指紋の読み取り機の反応が鈍かったからである。この話をあとでバンコク在住の元生徒に聞かせると、「先生の指が年齢のせいで油分が無かったのでは?」と嫌味を言われた。だが、同行者である華道講師も同じく時間を要したから、やはり機械が悪いと言いたい。

ターンテーブルで荷物が出て来るのを待っていた時、私の背後から「吉川先生!」と声をかける人物がいた。私にとってものすごくサプライズであった。彼のおかげで今回の旅がスムーズにスタートしたと言っても過言ではない。