昨日の「タイ語初級 木曜日14:30」のクラスに出席した生徒はわずかに1名。その他の方々は諸理由により欠席された。
1名の出席者は大学院生である。日頃、中・高年の生徒達と一緒になって控えめに勉強しておられるので、私は責任を感じていた。大学院生はタイ研究のためにタイ語を勉強している。したがって、文献が早く読めるようになってほしいと願っているが、グループ・レッスンだから、急にレベル・アップすることができない。
私は彼女に言った。「今日はあなたお一人だから、あなたに最適なる授業をいたします。何なりと希望をおっしゃってください」
すると、彼女は答えた。「タイ文字がすらすらと読めるようになりたいんです」
私はすぐに応じた。「それでは、『タイ語入門』20課の会話文のうち、タイ文字の部分だけをお読みください。きっと読めるようになっていますよ」
私は彼女の自主性を重んじ、彼女に読ませた。彼女はどんどん読んでいった。あっというまに20課全部を読んだ。
まだ時間が余って困ったので、タイの小学校国語教科書も読んでもらった。彼女は読めた! 自信がついた顔をして教室をあとにした。
80円から82円
最近、とんと郵便物を出さない。メール連絡で済ませているからだ。2日前、某社に請求書を送る必要が有り、封書で送った。ところが、昨日、郵便受けに出したはずの封書が戻って来ているではないか。封筒の表に白い紙が貼り付けられていた。
「この郵便物等の料金は、82円となります。新料金との差額2円不足ですので、料金相当の切手をお貼りいただき、お出しください。(消費税率の改定に伴い、平成26年4月から郵便物等の料金が改定となりました) 日本郵便株式会社」と書いてある。
季節の花である水芭蕉の絵が描かれた切手をわざわざ選んで貼って出したというのに、大失敗。日頃、いかに封書を出していないかということが分かり、我ながら苦笑した。
同時に、受け取る郵便物もかなり減った。それに、たとえ有ったとしても、「料金後納郵便」というものがほとんどだから、切手は貼っていない。
そういえば、昔も郵便料金の値上げで、41円とか62円とかの切手が発行され、それらがたくさん残っている。これからは2円不足を解消するために、昔の切手を机の上に置き、これからは失敗しないようにしよう。
ナズナ(薺)を食す
2014年もそろそろ半分が終わる。1月7日は「七草粥」を食べる習慣があるが、疲れてきた胃を休ませるために、昨晩は医食同源を基調とする中華料理店へ行った。そして、ナズナと豆腐が入ったスープを注文。さわやかな気分になった。
ネットで調べると、「医食同源」という言葉は日本で造語されたものであり、本家本元の中国では「薬食同源」というらしい。
ところで、「ナズナ」は「ペンペン草」のことだが、漢字で書くと「薺」と書くということを初めて知った。草冠の下に、「齊」という漢字が組み合わされていることから見ても、いかにも精進料理に通じる感がある。
昨晩、中華料理店には私と友人以外、他の客は全く現れなかった。店主は言った。「みんな、早く家に帰ってしまったと思うよ。明日5時からのサッカーを応援するためにね」
そう言いながら、黙々と餃子を作っている。彼は教えてくれた。「中国では、薬を嫌う子供に薬を飲ませる時、餃子の中に薬を混ぜ込めるんだよ」
史料を書き写す作業
昨日は自宅にこもり、『青雲の翳』(竹原素子著 鹿砦社刊 1984年)を読んだ。この本は私の親友から「叔母が書いた本です」と言って、30年も前に贈呈されていた本であるが、失礼ながら、積読コーナーにおさまったままであった。
これは明治17年(1884年)に茨城県で起きた「加波山事件」をテーマにしている。これまで茨城県に関心を持っていなかったが故に書棚の中を行ったり来たりしていた。
ところが、タイ語の生徒達に茨城県在住の方達が増えてきたこと、そして、昨年、北茨城の方まで遊びに行ったことがきっかけとなって、この本をやっと読む気になった。
著者は「あとがき」に、「主婦である自分が茨城県の史料を書き写す仕事をする中で、加波山事件に関与した青年達の熱き意志を感じ取り、小説として書き残したかった」ということを書いておられる。もともと作家志望であった彼女ではあるが、史実を収集するために足を使って関係者に聞き書きする姿勢たるや、ものすごく精力的である。
史料を手で書き写すということは、事件の関係者の思いが伝わってきて、次代の人々を目覚めさせてくれるようだ。
歌碑 「山吹の里」
昨日、授業後、早稲田の古本屋街へ行ったが、一軒たりとも開いていなかった。一軒くらい開けておいてくれればいいのに….。
そこで、我が家に向かった。面影橋を渡ると、「山吹の里」の歌碑が有った。他の場所から移設してきたもののようだが、いずれにせよ、その辺りは昔、鷹狩りが行われており、徳川家の方々が遊びに来ていたところだ。
太田道灌にまつわる「山吹の花」の伝説は各地数か所に残ってはいるものの、鎌倉街道があった豊島区高田にも、同じように残っている。貧しい家の娘に蓑を借りようとしたら、山吹を一枝差し出され、それが和歌の一部からとったことをあとで知った太田道灌が、それ以来、和歌に目覚めたという話である。
今はコンピューターにより情報があっというまに世界中に届くが、その情報は下水の如く流されていくだけ。
昔から鎮座する歌碑は多くを語りはしないが、どっかりと腰を据え、その存在感たるや子々孫々まで続く。
特別講座 「絶対に通じる旅のタイ語」
昨日、特別講座「絶対に通じる旅のタイ語」を開催した。参加者は、火曜日19:00と20:30の初級クラスで学んでいる生徒達ばかりであった。彼らは通常、夜の授業が終わると急いで帰る。一緒に食事をしたことが一度もないそうだ。したがって、この特別クラスに参加後、私も交えてタイ料理を食べに行くことになっていた。
さて、特別クラスの授業だが、「~へ行きたい」ということで、地名や場所を言わせたが、タイ人講師は、「その発音じゃ、行けませんよ」とか、「ウーン、微妙」とか言って、OKサインは出さなかった。
一人の生徒が、「シェラトン・ホテルはどう発音するのですか?」と尋ねた。タイ人講師は「シュラタン」に近い発音表記を白板に書いた。タイ語では、外国語の末子音は「3声」で発音する傾向があるので、声調もしっかり付けて発音しないとタイ人には通じない。
いずれにせよ、生徒達の発音はまだまだであった。これでは、「絶対に通じる旅のタイ語」ではなくて、「絶対に通じない旅のタイ語」になってしまった。
そのほかにも、タイ料理のメニューを発音する時間をもった。そして、授業後、教室の近くにあるタイ料理店へ行き、タイ人のウェイトレスに話しかけるようにさせたが、肝心のタイ人が日本語でしか応答せず、がっかりした。彼女は日本語を覚えたいのであろう。その気迫だけは感心した。生徒達もその精神を学んでほしい。
ギリシャ語 vs タイ語
ギリシャとの戦いは引き分けで終わった。私の恩師の松山納先生が授業中に次なる話をされたことが思い出される。
「東大の言語学科で専攻の言語を選ぶ時に、人があまりやらない言語を専攻したらどうかねと、先生に言われたんだよ。たとえば、国の名前に<シャ>がつく言語をね。ギリシャ、ペルシャ、そして、シャムの中から選ぶといいよ。そこで、僕は考えた。ギリシャもペルシャも日本からは遠い。残るはシャム。そうだ、シャム語にしよう」
松山先生の時代は、タイではなくて、シャムと呼ばれていた時代だ。
通訳・翻訳会社である吉香から、「吉香ニュース 6月号」がメール配信されてきた。その中で募集されている言語は以下の通りである。スペイン語、ポルトガル語、タイ語、ギリシャ語、オランダ語、そして、広東語。
ギリシャ語の翻訳は、おそらくワールド・カップと関連があること間違いなし。
美しい声のフランス人男性
今朝、フランス対スイスの試合を見た。見ごたえのある試合であった。
ところで、泰日文化倶楽部で開講されているフランス語の授業は3ヶ月の休みに入った。テレサ先生が家族と共にヴァカンスでフランスに帰られるからだ。
最後の授業は、これまでに習った構文を用いた文章がどれだけ聞き取れるか試された。内容は、テレサ先生の御主人の1週間における生活に関するものであった。スマホに録音してきた声の持ち主は、もちろん御主人の声。その声がなんとも落ち着きがあってすばらしかった。我々生徒はまずその声にしびれてしまった。声だけでも恋こがれていれば、フランス語の勉強がはかどるような気がしてきた。
テレサ先生は、息子さんの声も吹き込んできて聞かせてくださる。一家をあげて、フランス語の授業に協力してくださっているかと思うと、非常に嬉しい。メルシー・ボク!
ラオス在住のNさん
マリンメッセ福岡で開催された「インターナショナル・ギフト・ショー」に参加していたアジア・アフリカ雑貨店の店主Y子さんが東京に戻って来られ、昨日、みやげ話を聞く機会があった。
このショーにはラオス在住のNさんと一緒に出展された。Nさんはベトナム経由で福岡入りをしたとのこと。ハノイと福岡は4時間のフライト。とても近く感じたそうだ。
ところで、Y子さんからいつもNさんの話が出るので、旧知の間柄のような気がするが、実は一度もお会いしたことがない。「Nさんはラオスで何をしているの?」とY子さんに尋ねたところ、彼女は次のように答えた。
「シルクの店でお手伝いをしています。ほかにいろいろとやっていますが、日本のおじさんで、地雷撤去の仕事をしている方がいて、その方に頼まれて翻訳なんかもやってますよ」
それを聞いて、私はすかさず言った。「その方、もしかしてW氏じゃありませんか?」
Y子さんはLINEでNさんに問い合わせてくれた。そして、わかったことは、やはり私が知っているW氏であった。
W氏とは43年来、年賀状を交わしている。43年前、一緒にタイ語を勉強した仲間である。
Y子さん曰く、「インドシナはつながってますね」
喋る仕事 喋らない仕事
最近、会計の仕事をしている女性達に会う機会が偶然にも3度も有った。「会計の仕事は一生、続けますか?」と同じ質問を投げかけたところ、いずれも皆、否定した。理由を聞くと、数字との格闘はいやだそうだ。
一人の女性はこう答えた。「1円でも違うとだめですからね。数字とのにらめっこで、対話というものがありません」
それを聞いて、声を出す仕事はいいなあと思った。特に、語学教師は90分、喋りっぱなしである。そういう意味では、全く退屈しない。2時間でも3時間でも、いや10時間でも喋り通す自信がある。
しかしながら、対面販売の方達が接客する中でストレスがたまるが如く、教師というものも、結構、ストレスを感じる職業だ。その日のストレスを翌日まで引きずらないようにしないといけない。休日などは、何もない部屋で誰とも喋らない時間を持ちたいと願う。
喋らない仕事もいつか飽きがくるであろうが、喋る仕事も、それが度を過ぎると人間性が安っぽくなる。中庸で行くに越したことはない。