練習

「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ」

上記の文章は、『人生の鍛錬』(小林秀雄 新潮社編 2007年)の第9章からの抜粋である。「絵を見る」のところを「〇〇を勉強する」に置き換えるとしよう。すると、それ(〇〇)を勉強することがどういう意味を持つかが自分なりに納得できる。タイ語の勉強も然り。研鑽を積んで、認識を得る練習、言い換えれば、気づきを得る作業を繰り返そう。