最近、四国遍路ブームだそうだ。2ヶ月前の番組でNHKが「お遍路で自分探しをする若者」を特集していた。日本全国から四国に来ることは歓迎する。自分探しをする若者も良し。定年後の生き方を求めてお遍路さんをする初老の人もまた良し。
番組ではゲストとして或る札所の御住職が遍路に関して解説した。そして、もう一人のゲストである心理学者の女性教授が若者達の心を分析した。それを聞いていて、「お遍路さんのことを分析してもつまらん」と、私はすかさず思った。
何故、そのように言い切るかというと、私が生まれ育った環境による。幼い時から真言宗の中で育ち、弘法大師は<お大師さん>と親しく呼んでいた。お遍路の話は日常茶飯事であった。
私の家は宿屋をしていた。親の話によると、開業して最初に泊まった客が、なんと、泥棒であったそうだ。そのことは警察からの知らせでわかったとのこと。
そして、第2番目の客がお遍路さん。「お世話になりました」と言って出て行った客が、しばらくすると戻ってきたそうだ。「何か忘れものでも?」と親が尋ねると、彼はこう答えた。「先ほど脱いだスリッパの向きを、次の客人のために、きちんとそろえておくのを忘れました」
彼は自分の行状に徹底した人物であった。お遍路ギャルやら、外国人遍路やら、いろいろなお遍路ブームが軽々につくられているようだが、遍路とは、自分の一挙手一投足と共にあるのである。