10月に大分県へ行くことになった。結婚式があるからだ。飛行機の予約は終わったが、問題は宿。どこに泊まろうかと思い、ネットで探していると、別府に面白い名前の宿が有った。
その名前は、カオサン○○ホテル。カオサンといえば、バンコクのカオサン地区がすぐに思い浮かぶ。その宿の経営者はおそらく若い頃、東南アジアを周遊し、安宿の有るカオサン地区に泊まったことがあるので、自分のホテルにもそのような名前を冠したのではないかと、私は勝手に想像し始めた。
よくよく見ると、その近くには外国人用のホテルが有り、国際色豊かだと宣伝している。
別府には立命館アジア太平洋大学が有るので、昔と違って、かなり面白い雰囲気があるのかもしれない。
タイ料理店での女子会
昨晩8時半過ぎ、泰日文化倶楽部が入っているビルを出て帰ろうとすると、エントランスのところに「タイ語入門 木曜日19:00」の生徒達が何やら話をしていた。これから近くのタイ料理店へ行くらしい。
私も誘われた。実はすでに夕食を済ませていたが、「女子会しましょうよ」と言われると、真っ先に行きたくなった。
タイ料理店の名前は「タワンタイ」。この店は、タイ語の生徒さんを紹介してくださる。だから、こちらもお返しに食べに行くというわけだ。
昨晩の女子会のメンバーは、日本女性2名、中国人女性2名、そして、私。中国人女性の一人はこの店で泰日文化倶楽部を知ったとのこと。彼女は冷えていないビア・シンを注文。冷たい飲み物を飲まない中国人に徹していた。
女子会の話題はタイ料理。目の前においしい料理が並んでいるため、タイ語の勉強にも弾みがつく。店内からタイ人達の生きたタイ語が聞こえてくると、とてもいい雰囲気になった。
生徒達のみやげ話
8月にタイへ行かれた生徒達が、再び、泰日文化倶楽部に戻って来られた。ただし、毎日が日曜日の定年組はいまだにタイに残り、日常生活に溶け込んでおられるようだ。
私の関心事は、生徒達が果たしてどのくらいタイ語を使い、そして、自信をどの程度、つけてきたかということだ。どうやら、それほど伸びてはいない様子であったが、よく聞いたと思われるタイ語はそれなりに迫力があり、生きた会話を身につけて来られたことは確かである。
みやげ話はこうである。①お腹をこわしてばかりで、ホテルで寝ていた。一緒に行った友人は同じものを食べてもなんともなかったのに。②泊まったホテルが中国人、また、中国人。マナーの悪さに辟易した。③波が高かったため、チャーン島へ行く船が揺れて、乗っている人達は皆、吐いた。天気が悪くて、楽しめなかった。
これらのみやげ話なら、よく聞く話であるから特に目新しいものではないが、そういう時に、生徒達がタイ語を使って、どのようにタイ人と交渉したかを聞きたかった。
或る生徒は、郵便局へ行って、自分宛に荷物を送ったことが面白かったそうである。ローカルな郵便局で、郵便局員とタイ語で交渉することは滅多にしないことだから、思い出に残ったようだ。
タイ料理の名前の発音
泰日文化倶楽部では、9月開講予定のクラスを4クラスも募集しているが、果たして新規の生徒が集まるかどうかはわからない。だが、期待はしている。今夏、初めてタイへ行き、タイ語にふれた方達も多いであろうから。
ところで、タイ料理店へ行くと、どこも満員だ。タイ語を勉強している人達の集まりも考えられるが、それよりも、単にタイ料理が大好きだから食べに来ていると人達が多いように思われる。こうした方達がタイ語の勉強に来てくださるといいなあと、いつも思う。
8月に新規開講クラスを3クラスも開講したが、女性の生徒達にタイ語を習う目的を尋ねると、やはりタイ料理であった。そして、タイ料理の名前が通じないので、正しい発音を教えてほしいと要望された。たとえば、「蟹のカレー粉炒め ปูผัดผงกะหรี่」とか、「空芯菜炒め ผักบุ้งไฟแดง」….。
これらの単語を正しく発音するのはとても難しい。ましてやタイ語を習って、発音の訓練を受けたことが無い人にとっては。
タイ料理が好きな女性の皆さん、是非、是非、タイ語を習いにいらしてください!
本郷の古書店
昨日、本郷へ行った。仕事が午前中で終わったので、午後は本郷界隈を散策することにした。だが、あいにくの土砂降り。そこで古書店に入る。
その古書店は中国関係の専門書店であった。雰囲気が違う。威厳が感じられた。
奥の方から中国語が聞こえてきた。女性の中国人が通訳している。「15万円」と店主が言うと、そこで値段交渉が始まった。結局、中国人の客は14万円で購入。古書を包んでもらって店を出て行く時の満足気な顔。よほど購入したかったのであろう。
中国人が中国語の稀覯本を買って行く。散逸したものを買い集めているのであろう。
そのあと、別の古書店にも寄ってみた。女主人が喋ること、喋ること。「うちはもう83年やってます。息子が継いでくれないので…」
私は言った。「大丈夫。息子さんが定年になってから継いでもらえばいいでしょう」
「主人は先代から引き継いで50年やってます。目利きには時間がかかるのよ」と、女主人。彼女は71歳であった。
切手の博物館
8月の疲れを取ろうと思って、下落合に在る元生徒さんの整体院へ行った。ところが超満員。致し方なく、とぼとぼと歩いて目白を目指す。切手の博物館の前を通った時、表の看板にカフェが有ると宣伝していたので、コーヒーを飲もうと思って館内に入った。しかし、受付の人に尋ねると、かなり前にもう閉店してしまったとか。
切手の博物館は入館料が¥200。1996年に設立されたそうだが、私は切手に興味が無かったため、これまで一度も入ってみたことがなかった。
ところが、想像した以上に面白かった。創設者である水原氏の書斎が再現されており、壁に掲げられた彼の言葉が印象的であった。切手とは、「無言の外交官」なり。
世界各国の切手が売られていた。私は一番にタイの切手を探した。もちろん有った。日タイ修好百周年の時(1987年)に発行された切手は壁一面に描かれた世界地図の中のタイの位置に貼られてあった。
私は会員登録を申し込んだ。年間わずか千円也。会員カードを作るため、写真を撮った。大きな切手型の中におさまった自分の顔。読書室がなかなかいいので、時々、行ってみよう。
第89回アジア女性のための生け花教室
昨日、「第89回アジア女性のための生け花教室」を開催した。2007年1月から始めたこのクラスはすでに7年半になる。昨日もミャンマー女性達は出席しなかった。出席したのは日本女性だけ。国際色に欠けるのが淋しい。
だが、出席した<やまとなでしこ>達は、皆、熱心に花と取り組んだ。
2回しか参加しなかったN子さんは1週間後には御主人が待つバンコクへと飛び立つ。買って来た花を単に瓶にポイと入れるだけではなくて、<和の心>を持って、花を生ける喜びを覚えた様子であった。
華道講師もタイに有る花を選ばれて、指導にあたっておられた。タイの植物は大柄なものが多いから、生け花には適さないが、工夫次第で何とかなる。
N子さんはこれから8年位、バンコクで生活されるとのこと。是非ともタイの花を花瓶に生けて、生活に彩りと潤いを持ってもらいたい。
「タイ語初級 金曜日19:00」のクラス
「タイ語初級 金曜日19:00」のクラスは約1年半前からスタートしたクラスだが、最初に入会された生徒達は、1名を残して、それぞれの事情により退会されてしまった。しかし、途中から入って来られた方が1名おられるので、計2名のまま続行している。
ところが、この両名とも、きわめて多忙な方ばかりなので、どちらかが授業を休む。したがって、1名だけのマンツーマン授業となっている。お二人ともとても真面目で、かつ、紳士的態度で私に接してくださるので、クラスを閉鎖することは考えていない。どちらかがお辞めになる時まで、この金曜クラスは継続していこうと考えている。
生徒のA氏は全国を飛び回る仕事だと聞いている。そのため、金曜の夜に東京に戻って来ることが間に合わない時が多い。もう一人のT氏も、保険関係の仕事なので、災害が起きるたびに授業の出席率が落ちる。
広島での大災害。その関連なのか、T氏は昨夜も残業となった。願わくば、日本全国がどうか災害や事故から免れられますように….。
8月の入会者
8月もそろそろ終わり。昨日の東京は10月上旬の気温であったとか。寒いはずだ。
泰日文化倶楽部では、8月の入会者が意外にも多かった。何故だろう。不思議、不思議。
日本人がタイへ行くのが以前より増えた。ビジネスであれ、個人であれ、皆さんよく出かけて行く。タイ語を習おうと決心するまでには時間がかかるが、習うなら早く学校に入ることだ。一人でぐずぐずしていても、前進は無し。
見学に来られた一人の女性が、翌週から「タイ語入門 木曜日17:30」に入会された。彼女は言った。
「先生、東京女子大卒でしょ。私、後輩です!」
それを聞いて、久々に後輩の入会を嬉しく思った。昨日の授業の時、大学の卒業年度を尋ねると、私よりも18歳、後輩であった。
「女子大卒の女性は、何か(something)を持っています。頑張ってください!」と、激励した。
時計屋の店主
腕時計の針の動きがおかしい。よく止まるようになった。おそらく電池切れに違いないと思い、40年来、利用している目白駅近くの時計屋へ行った。
そこは、店の右側がせんべい屋、左側が時計屋というしつらえになっている。7年位前までは、時計職人を雇っていたが、その職人が病気の奥さんの世話をしなければならなくなって辞めた後は、せんべい屋の亭主が時計を直し始めた。その亭主こそが、実は時計屋のオーナーであった。
ところが、昨日は、その亭主がいなかった。代わりに応対した中年男性に、私はすかさず尋ねた。「おじさんは?」
「おじさんはいなくなりました。おじさん=私の父でしたが…..。去年9月、亡くなりました」
それから以後、彼が時計の電池を換えながら、たくさんの顧客に励まされて、彼が時計を修理することになった経緯を話してくれた。経験はなかったが、恐る恐るやっているうちに何とか修理が出来るようになってきたそうだ。やはり父親の仕事を見て、彼の頭の中にちゃんとインプットされていたわけだ。
彼は54歳。安い値段を提示してきたが、私は彼の真摯な仕事ぶりに感激し、通常のお金を支払った。彼が立派な職人であることを認めるために。