昨日、バンコク在住のK氏からメールが有った。「今晩、泰日文化倶楽部の卒業生達で食事会をします。題して、第1回交流会です。先生、スカイプをするようでしたら、スカイプでお話ししましょう」
私はスカイプをしないと返信すると、今度はLINEが入ってきた。かくして、皆さんと次から次に無料電話ということになった。
いやもう、実に嬉しかった。皆さんが元気に活き活きと生活しておられるのがよく伝わってきた。そして、皆の声をまとめれば、こうである。
「タイに来る前に泰日文化倶楽部でタイ語を勉強しておいてよかったです!」
昨晩、集まった方達はいずれも皆、日本大使館関係の面々であった。
ここで少々、自慢させていただくとするならば、タイの日本大使館へ赴任される前にタイ語を習いにみえる外交官を泰日文化倶楽部は永きに亘りご指導してきている。彼らが喜んで下さると、私も非常に嬉しい。
バッグのデザイナー
泰日文化倶楽部に1年前から入会されたKさんはバッグのデザイナーである。ロンドンの芸術大学で学び、帰国後は、TOMOO というブランドを起ち上げ、感性豊かなバッグを創作し続けておられる。タマサート大学からの招聘を受けて、講師として5年、バンコクにも住まわれた経験がお有りなので、タイ語はかなりおできになる。
先週、彼女のバッグを級友が買ったらしく、それを見る機会が有った。日本の着物の生地と、タイの少数民族が愛用している生地の両方を使ったバッグを見て、その発想に感心した。見事な融和であった。
着物だけだと地味めだ。そこにエスニックを取り入れると、可愛くなる。そして、日本で縫製しているから仕上げが非常に丁寧である。このバッグだと、街の中でも一目置かれること間違いなし。
推薦状
『見えないものを大切に』(澤田昭夫著・聖母文庫 2001年)の中に、推薦状のことが書かれてあった。
「四十年近く大学で教えている間に、沢山の推薦状を書いても来ましたし、読まされても来ました。ひとつ気がついたのは、日本で通用する推薦状には長所しか書いてないもの、また、熱心で温厚だという抽象的なきまり文句しか書いてないものが圧倒的に多いということです。私が学んだり教えたりして知っている外国の大学では、こういう推薦状は信用されません」
私も最近、元生徒さんから依頼を受けて推薦状を書いた。もちろん長所しか書かなかった。いかにも日本的といえば日本的である。
私が格闘したのは、封筒の表に書く「推薦状」という漢字であった。特に、「薦」という字は手書きをすることが滅多にないので、何回も書き直した。「薦」には、「この人を特にすすめる」という意味があるとのこと。なるほど、字画が多くて書くのに手こずるはずだ。
篝火
昨日、十条の町を歩いていたら、「篝火(かがりび)」という小料理店を見つけた。「篝」という漢字は滅多にお目にかかることがないだけに、しばらくこの一字を見つめた。だが、数本の木を横に幾層にもわたって組んでいく様子が「篝」の漢字には十分に表現されており、実に面白い。普段、よく使う漢字の「構成」とか「構築」の「構」に似ているので、何事であれ、きちんと計画して、しっかりと取り組んでいかなければいけないなあという思いに至った。
ランチは何回か行ったことのある鮨屋にした。そこへ行く理由は老犬がいるからである。店主に尋ねると、「今年15歳。もうおばあちゃんですよ」 彼女が生きていることを知って、安堵した。
鮨屋の近くには延命地蔵がある。姥犬は、そのお地蔵様に守られて、マイペースで一日一日を過ごしているようだ。
果物が嫌いなタイ人講師
6月から開講した「タイ語入門 木曜日19:00」のクラスは、テキストでは第17課まで終わった。第16課にはタイ料理名や果物の名称が出てくるので、復習を兼ねて、好きな料理や果物、そして、飲み物を列挙するように生徒達に言ったところ、発音が難しいらしく、彼らの発音ではいずれもタイ人に通じる様子がみられなかった。
ミカンの「ソム」もだめであった。そこで、たまたま買って持っていたミカンをみんなに1個ずつ配った。すると、タイ人講師がこう言った。「僕は果物を食べません」
それを聞いた生徒達は全員がびっくり。「タイは果物の王国なのに、食べないのですか?」
このような会話がなされると、これから先、生徒達は果物の話に敏感になるであろうと私は思った。私が演出したミカン効果も授業の一環として役に立ったはずである。
霜降
今日は二十四節季の「霜降」。今朝の温度は今年一番の冷え込みとか。道理で寒いはずだ。
さて、<霜>というタイ語は何と言うのであろうか? タイ人が編纂した日タイ辞書を見ると、次のように書いてあった。
① น้ำค้างแข็ง
② ละอองไอน้ำที่กลายเป็นเกล็ดน้ำแข็งตามพื้นดิน
どちらを使えばよいかと言えば、①のほうが簡単でいい。②は説明調だ。
しかし、チェンライやチェンマイの山間部を除けば、このような単語は滅多に使うことはないのではなかろうか。したがって、タイ語のテキストにも<霜>という単語は出てこない。ただし、<雪>という単語ならタイ人にも馴染みがある。ヒマラヤのヒマは雪という意味であり、ヒマラヤのカイラス山をタイ人は天国だと思って、大変に崇めているからだ。
大分旅行(終)
臼杵の町ともそろそろお別れだ。臼杵藩の上級武士の屋敷へ行ってみた。タクシーの運転手から、「開放していますが、誰もいませんよ」と言われた。だが、中に入ってみると、着物を着た女性がいっぱい。午後から裏千家の御茶会が催されるとのこと。お茶の先生は私を丁重にあつかってくださった。これぞ、お茶の精神なり。屋敷の中を一通り見てまわると、<雪隠>と書かれた板が廊下奥に置かれてあった。時代を感じた。
土産物店に寄った時、お勧めの喫茶店の場所をたずねてみた。すると、「啄木茶房」を紹介された。大分で啄木? 店に入ってみて、その理由がわかった。昔、そこの家の亭主が女性であると偽って啄木に手紙を出したため、啄木からの恋文がたくさん送られてきたらしく、それらが壁に飾られていた。地方の文学青年の熱き思いが伝わってきた。
大分旅行(9)
臼杵の町の仲で、南蛮歴史史料を展示した「サーラ・デ・うすき」の中庭にはイスラム系のタイルで造形したオブジェが有った。そして、別棟にバーのようなお店が目にとまった。ランチも食べられることがわかったので、思いきって入ってみた。客人は私ひとり。せっかく臼杵に来たのだから、郷土料理の「黄飯(おうはん)」を食べてみることにした。
黄飯の作り方はクチナシの実汁で米を黄色く炊き上げるそうだが、お膳にのって供せられた時、私はすかさずパエリアの黄色い御飯を思いうかべた。ポルトガルやスペインの影響! そして、その黄飯の上にのせる具のことを「かやく」というのを知ると、キリシタン大名大友宗麟が買い込んだ大砲と結びつき、ますます興味を覚えた。
ネットで調べると、黄飯の由来には諸説があるとのこと。赤飯が食べられなかった庶民達のために、祝い事に黄飯が考案されたとも書いていたが、私としては、絶対に南蛮の影響のほうを採用したい。
大分旅行(8)
披露宴が行われた老舗料亭の名前は「喜楽菴」という。帰京後、結婚式の様子を兄に電話で伝えたところ、兄は昔の話を言い出した。
「昭和28年(1953年)に香川県で国体が有った時に、大分県の臼杵高校のバレー部の選手がうちの旅館に泊まったが、その時の選手のひとりが、自分の家は臼杵で一番古い料亭です、と言っていたよ」
それを聞いて、私は早速、喜楽菴の料亭のHPでチェックしてみた。もし、そのバレーボール選手が御健在であれば、77歳位になられる。披露宴を取り仕切っていた女将は若女将であった。先代の女将は引退しておられるが、機会があれば、その料亭に問合せをしてみたいと思っている。
花嫁も臼杵高校の現役の教師であった。61年前に私の家は臼杵市と御縁があったが、こうしてその御縁が復活し、その不思議さをかみしめている。
大分旅行(7)
親戚の結婚式は、国宝臼杵石仏の御前で仏式により挙行された。丘陵に鎮座する石仏群は平安時代から鎌倉時代に彫られたものだそうである。山麓から丘陵へと登って行く新郎新婦。眼下に広がる黄金の稲田、たわわに実る柿の木、そして、コスモス。日本の原風景に心がなごんだ。
臼杵の石仏は、かつて首が落下していたものがあったそうだが、それを元通りに戻すと、石仏の威力が蘇ったとのこと。そこで、「首がつながった!」という新解釈が生まれ、人生の岐路に立たされている人には有難い石仏ということになっていると聞いた。
披露宴は臼杵市内で136年続く老舗料亭(明治11年創業)で行われた。臼杵はふぐ料理が有名な町なので、当然、ふぐも御膳にお目見えした。ふぐは縁起をかついで、「ふく(→ 福に通じる)」と書く地域もあるが、臼杵の町はいたるところ、すべての看板が「ふぐ」で通していた。