哀悼のタイ王国(9)

2016年10月19日の夜、プミポン国王の初七日の儀式が王宮から中継された。荘厳なる内部、そして、国王の御棺が安置された祭壇は黄金で燦然としていた。タイ国民はテレビ画面を通してではなくて、まるで宮殿のきざはしに我が身を置いているかの如き思いをしたのではなかろうか。
 王族の方々、王室関係者、そして、高位高官の方達が先に席に着いておられた。最後に、皇太子様が黄色いロールスロイスにお乗りになって王宮に到着された。後続の従者達の車は赤のベンツであった。国王をお守りする近習(มหาดเล็ก)の制服の色が赤だから、それにならったものかもしれない。
 阿毘達磨経(พระสูตรอภิธรรม)が僧侶達によって唱えられた。この読経は毎晩、必ず斉唱されている。心安らかなる響き….。いつまでも聞いていたい有り難き読経である。

哀悼のタイ王国(8)

新聞を買った後、パパイヤ(มะละกอ)とパイナップル(สับปะรด)を買って部屋に閉じこもった。テレビを見るためである。3チャンネル(ช่อง3)をつけると、キャスターもレポーターも皆、黒ずくめ。女性キャスターの場合、いずれも皆、襟が中国服のたて襟をしており、スカートも足首まで。すらりとしたスタイルのいい女性達がますますすっきり見えた。
 国王とゆかりが有った方達が次から次に登場したが、彼らも黒服で思い出話を語った。ピアニストは哀惜に耐えられないような表情でピアノを弾いた。バイオリニストも然り。ジャズのグループも深い面持ちで演奏した。国王がかつて所属しておられたグループの名前が「H.M.Blues」と言われたそうである。この「H.M.」は誰しもが、”His Majesty”であると想像するであろうが、実は”Hungry Men”の意味だと昔のジャズ仲間が語った。なかなか洒脱なネーミングであることか!

哀悼のタイ王国(7)

 シーロム通りは車が少なかった。スリオン通りに入ると、もっと少なかった。マッサージ店の店先で客待ちをしている人達は皆、黒。客は来そうにもない。まるでタイムスリップしたかのよう…..。
 サイアムスクエアのノボテル・ホテルはロビーを改装中であった。近所のセブンイレブンも改装中であった。午前中に行ったお粥の店も改装中。ということは、商売にならないので、この際、思い切って改装に踏み切ったということなのであろうか。
 チェックイン後、早速、新聞を買いに走った。国王関連の新聞や雑誌がうず高く積まれている。下世話な想像だが、タイ史上に於いて、一番たくさんの部数が売れるのではなかろうか。しかし、お店の人の顔は淡々としていた。笑顔は消えていた。
 私が買った新聞は大き目のビニール袋には入り切らなかった。もう一枚、ビニール袋を追加して数社の新聞を入れてくれた。今回のバンコク訪問の目的の一つは新聞を買い集めることであった。

哀悼のタイ王国(6)

 「ヤーンナワー寺院のマッサージはすばらしいから、ここでやりましょう」とクン・メーから誘われたので、素直に従った。マッサージをする中年女性にまずは国王のお悔やみを言い、彼女の反応を見た。だが、案の定、無口であった。そこで、個人的な話に切り替えた。
 「何県出身なの?」
 「サコンナコンです。サコンナコンの山の頂上に、国王がお泊りになられる御殿(ตำหนัก)が有ります。国王は毎年のようにサコンナコンにいらしてくださったんですよ」
 彼女がこれだけのことを喋ってくれただけで、私は満足した。国王がイサーン地方へ繁々と行幸あそばされていたことが、庶民の口を通して如実にわかったからだ。
 マッサージの後、タクシーでシーロムへ行き、こじんまりとした食堂で、クン・メーのお勧めに従い、カエル(กบ)を食べた。カエルを食べるのは初めて。「国王が蘇る(よみがえる)」ことを願う気持ちが私には強くあった。

哀悼のタイ王国(5)

洋裁店ではわずかに15分しかいなかった。いつもなら1時間以上も談笑するのに、今回は皆、忙しそうであった。唯一、嬉しかったのは体調をくずしていたオーナー女性が快復していたことだ。隣接する息子のイタリア料理店が倍の面積になり、それはそれは繁盛していることがよくわかった。飾ってある孫の写真を指差しながら、おばあちゃんの顔をほころばせていた。
 洋裁店を出たあと、クン・メーがヤーンナワー寺院へ行こうと言った。いつもはサパーンタクシン駅のホームから写真を撮るだけしかしていなかったので、寺院を見物するのは初めて。寺院の中からチャオプラヤー河の船着き場に出て、そこで魚を放った(ปล่อยปลา)。鰻にするか、それとも、鯰にするかと訊かれたので、私は鯰を選んだ。鯰のほうが、どんくさそうであったこと、顔が可愛かったこと、そして、70歳を迎える私には、大きさ的にも鯰のほうがよかった。
 クン・メーの読経をすぐあとから真似しながら5分唱えると、鰻はようやく目をぱちくりした。私の読経を認めてくれたのだ。そして気持ちよくチャオプラヤー河を泳いで行った。

哀悼のタイ王国(4)

乗換え駅であるサイアム駅は予測していた通り、黒服のタイ人でごった返していた。私の降車駅はサパーンタクシン。そこはいつもの賑わいが感じられほっとした。だがよく見ると、道路上で売っているものは、黒いTシャツや黒い髪飾り。
 クン・メーがチャルンクルン通りにあるおいしいお粥の店に連れて行ってくださった。ところが、閉まっていた。店内改装するとの張り紙が有った。
 隣りの店でセンレックを食べながら時間をつぶし、9時きっかりに、シャングリラ・ホテル近くにある行きつけの洋裁店へ行った。いつもなら、「アジャーン!」と言って、ものすごく歓迎してくれるのに、今回は様子が違った。
 「日本から持って来た生地で、2着、ジャケットを作ってください」と言うと、「注文を受け付けることは無理。なにしろ、一年先までオーダーが入っているから」と、店の人は強気も強気。上得意である私を忘れたのかと、内心、腹が立った。しかし、タイのマダム達が黒い服をたくさんオーダーしていることを知り、事情が事情だけに、なるほどなあと思った。だが、私は引き下がらなかった。そして、2着、ちゃんと作らせることに成功した。

哀悼のタイ王国(3)

10月19日午前6時15分、出迎えに来て下さったピカピカ先生のご両親と合流。駐車場へ行き、スワンナプーム空港を出たのが6時30分。車はオンヌット方面を目指して走り出した。郊外にある小さなホテルのフェンスにまでも白黒の太い布が右から左へと敷地いっぱいにたれかけられているのを見て、いつものタイではないことを感じ取った。
 車はオンヌットからスクムビット通りに入った。「どこへ行くんですか?」と尋ねると、「ホテルまで」とクン・ポーは答えた。「あのー、チェックインは午後2時なんですけど。それではチャルンクルン通りまで連れて行ってくださいませんか? 洋裁店へ行きたいので」と、私。
 しかし、クン・ポーは会社へ行かなければならないので、それは無理とのこと。そこで、クン・メーと私はトンローで降車して、BTSでサパーンタクシンまで行くことにした。午前7時20分、トンロー駅からBTSに乗り込むと、すでに超満員。ほとんどの人が黒い服であった。私のスーツケースは肌色。それを車内に押し込むのが一苦労であった。

哀悼のタイ王国(2)

19日午前4時50分、スワンナプーム空港に着いた。飛行機を降りてから入国審査所までゆっくりと歩いた。何故ならば、迎えに来る方には6時に来てくださいと言っていたからである。入国審査のすぐ近くまで来ると、「タイ人? タイ人はあっちだよ」と言われた。
 バンコクに初めて行った1972年、当時のドンムアン空港には入国審査のブースは、タイ人用が一つ、そして、外国人用が一つしかなかった。その時も、タイ人用に並びなさいと言われたのを思い出した。
 それ以来44年間、いつ来てもプミポン国王はタイにおわしました。だが、今回は…..。
 税関を通って外に出た。空気が重苦しい。高級ホテルから迎えに来ている人達の表情もかたい。私は一時間近く、ベンチに座ってタイ人達を観察した。ベンチの一番端のところで、靴を脱ぎ、壁に向かって足を組んで、顔を下に向けている女性がいた。彼女は白いTシャツを着ていた。背中には黒色で「0」という数字が書かれていた。「0」とは何を意味するのか?

哀悼のタイ王国(1)

2016年10月13日夜、国王崩御の報に接し、ついにその日が来たということを静かに受け止めた。しかし、ラインや電話が入って来たので、それらの対応に追われた。やがて、再び考える時間がやって来た。私は何をすべきか? そうだ、タイへ行こう。
 だが、当面の仕事を処理するまでに5日を要した。そして、18日の火曜日、大学の講義を終えてから羽田へと向かった。急遽、タイ航空の航空券を予約したので、いい席は取れなかった。私の座席は機内食を置いてある場所のすぐ横。そのため客室乗務員の動きがよくわかった。通路と内部を隔てるカーテンを見た時、ハッとした。何故ならば、黒のカーテンになっていたからだ。
エアホステスの一人は黒いタイシルクを身にまとっていた。美しくもあり、悲しくもある光沢….。 
19日の午前4時半(現地時間)、まだ薄暗いスワナプーム空港周辺の景色を飛行機の窓から見下ろした。車の動きが異常に少ない。以前と比べると、何かがちがう。

黒いリボン

泰日文化倶楽部のタイ人講師達は黒い服を着て教室に来られている。服喪であることが一見してわかる。ミカン先生はこれから先、一年間、黒か白の服を着るつもりであることを、生徒の前で明言された。「新宿のユニクロの店から黒い服だけが売り切れになったそうですよ。おそらくタイ人が買ったのでしょう」
 そのミカン先生が、「黒いリボンを作りました」と言ってカバンの中から安全ピンがついたリボンを取り出して見せてくれた。「黒い服が無い場合は、これを左の腕につけてください」と、彼女。悲しみを表わす黒いリボンを、生徒と私は頂いた。
 ミカン先生は時間が許す限り、自室で黒いリボンを作り続けているそうだ。そして友人達に配るとのこと。このような服喪の仕方が有ることを身近なところで知って、タイ人のタイ人たるところをしかと観た。
(注)10月19日から24日までバンコクへ行きますので、しばらくブログは休みます。