テントの下の検問所はなんなく通過した。というか、警官は善良なる市民の悲しみにくれた顔を見て、何ひとつ疑う様子もない。王宮前の道路を渡って、いよいよ門の中に入った。黒服の人々が4列で長々と並んでいた。拝礼場所の入り口まではまだ遠い。時計を見ると、丁度12時であった。
炎天下で並ぶ覚悟を決めた。暑いなあと思っていたら、隣りで並んでいた中年女性が折りたたみ傘を開き、私に半分さしかけてくれた。その優しさが身にしみた。傘の下で、私達は姉妹になったような気がした。
拝礼場所の近くまで来ると、テントが張ってあり、並んでいても苦にならなかった。誰かが警備の人に向かって尋ねた。「写真を撮ってもいいですか?」
すると、彼は当意即妙に答えた。「かまいません。しかし、ここでいくら写真を撮っても、王様はもうお出ましにはならないですよ」
それを聞いた市民がどっと笑った。悲しみの中の笑い。タイ人の明るさに安堵した。
哀悼のタイ王国(18)
芸術大学の学生達が描いたプミポン国王の絵の前で、大勢の人が記念写真を撮っている。そこで、私も写真におさまった。
王宮にはたくさんの門があるが、最初に通りかかった門には衛兵が立っており、王宮内から出て行こうとしている高級車に向かって敬礼をしていた。高位高官の方達が拝礼をすませて出て来ているところであった。
庶民が入れる門はまだまだずっと先だ。並んでどんどん入って行く様子が見えた。ああ、もう少しだと思っていたら、直接、門に入れるわけではなくて、反対側の道路上に設置されたテントの中を通過しなければならなかった。警官が立っていたから、荷物検査が有る様子だ。
しかし、テントの横にはたくさんのボランティアがいて、水や気つけ薬や強壮剤を大きな声を出しながら配っている。中には、かぼちゃを油で揚げながら、「さあ、食べて食べて」と盛んに勧める。新聞に包まれた熱々の揚げかぼちゃを私は急いでほおばった。だが、待てよ、私はかぼちゃを食べにここに来たのではない。主たる目的は王宮へ行き、拝礼し、記帳することだ。
哀悼のタイ王国(17)
土産物屋には王家の写真や絵葉書がいっぱい売られていた。私は額縁に入ったプミポン国王の写真立てを2つ、そして、写真を10枚ほど買った。泰日文化倶楽部のタイ人講師へのお土産にしようと思ったからである。
薄暗い屋根に覆われていた土産物屋を出ると、急に視界が開けた。遠くに王宮の白壁が見えた。黒服の人々が皆、同じ方向に向かって歩く。シラパコーン大学(=芸術大学)の学生達が大学の白壁に描いた国王の絵がいくつも有った。国王を思慕する学生達の絵筆は確かなものであった。写真で見る国王よりも、慈悲のまなざしが強く感じられた。学生達は国王への気持ちを表わすには、今、この時しかないという思いで白壁に向かい、そして、一心不乱に描いたにちがいない。
哀悼のタイ王国(16)
久しぶりに船に乗ったが、チャオプラヤー河は満ち満ちていた。途中の船着き場はどこも黒服のタイ人であふれかえっていた。船にのりきれるはずがないから、皆、ただ待つだけの様子だ。
船に乗っている間、私は10年前に挙行されたプミポン国王在位60周年を祝う御座船行列を実際に見た時のことを思い出した。歴史的絵巻物語は、私の脳裏にしっかりとおさまっている。
ターチャーン船着き場に着くと、皆、土産物屋のトイレへと向かった。トイレ使用料は一人5バーツ。一日男女合わせて2千人は使用する勢いだ。2千人x5バーツ=1万バーツ(約3万円)。1ヶ月で90万円ものお金が転がり込んでくる….。店先に、置物ではなくて、本物の猫がいた。その猫も黒。毛がつやつやしていた。猫も喪に服していた。
哀悼のタイ王国(15)
バンコク第3日目(10月21日)、王宮へ記帳に行くことにした。サイアム駅からサパンタクシン駅までBTSで行き、船着き場で並んだ。すでに大勢の人達が並んでいるのを見て、覚悟を決めた。目指すはターチャーン船着き場。
船に乗り込むと、幸いにも後方の右船べりに席が空いていた。そこに座って、チャオプラヤー河の景色を眺めながら写真を撮った。1903年から3年間、日本女性(安井てつ女史)が校長をしていたラーチニー女学校(王家の子女のための学校)を、40年前に取材したことがあるが、ラーマ5世時代に建てられたそこの校舎が目に入って来た。
しばし、昔の情緒に浸っていると、大波がざぶんとやって来て、ピシャリとしたかと思うと、私の身体は全部びしょ濡れになった。よける余地もなかった。目の中にまで河の水が入ったことに気づく。これぞまさしくチャオプラヤー河の洗礼か?
哀悼のタイ王国(14)
バンコク第2日目(10月20日)も、午前5時から昼まではテレビの前に釘づけになり、タイ人の胸中を間接的に取材した。王宮では僧侶供応のために毎朝、王族達が朝食を差し上げる儀式が執り行われている。僧侶達は各寺から交替で読経を唱えている。
昼過ぎ、ホテル近くのタイ料理店へ行く。人が入っていない。窓越しに行き交う人を見たが、気のせいだろうか、まばらな感じがした。マーブンクローン(MBK)まで歩き、中の賑わいを確かめたかったが、金を売っているコーナーのうち、3つがテナント募集中であった。不景気の前兆?
MBKを出て、国立競技場まで行くと、王宮前広場へ行く無料のワゴン車が数台、並んでいた。「おばさん、飲み物、どうぞ」と、若者達から呼びかけられた。王宮前広場へ行く一人だと思われたらしい。有り難く頂戴し、近くのコンクリート壁のところに腰を下ろして喉をうるおした。その後、すぐそばで、高齢の老人がセピア色の王室写真の複製を売っていたので、20枚ほど、買った。
哀悼のタイ王国(13)
番組のタイトルは「พ่อของแพ่นดิน 国父」だが、テレビは延々とタイ国民の哀悼の意を伝え続けた。まさに、「แผ่นดินน้ำใจ 御心の国」であると、アナウンサーは語った。
地方在住のタイ国民は喪服姿で県庁や役場の広場に集まり、「I♡๙ ラーマ9世を愛します」という人文字を作った。或る県は999人、或る県は9999人で亡き国王へ哀悼の意を表した。
国民は言う。「ไม่ได้พูดอะไรเลย แต่ใจเดียวกัน」、「ไม่มีพ่อ ไม่มีวันดี ไม่มีประเทศไทย」、「มีชีวิตความเป็นอยู่ที่ดีขึ้น」、「พระมหากษัที่เสียสละ」
マレーシアと国境を接するナラーティワート県在住のイスラム教徒は、「รักมากกว่าชีวิตตัวเอง」と語った。
サムットサーコーン県の漁師はこう言った。「พ่อมอบให้พลัง」
北タイに住む山岳民族は、国王が家に来て一緒にご飯を食べて下さった思い出を語り、そして、「พ่อมีแนวความคิด เข้าใจธรรมชาติ ทำได้ดีเพื่ออนาคต」と哀惜を込めて胸中を吐露した。
哀悼のタイ王国(12)
地方行幸をされる国王は森の中を先頭に立って歩かれる。一歩の幅が広い。大地を踏みしめる足に力が入っている。国王の頭の中には、農民の「生活の向上 ให้มีความชีวิตดีขึ้น」のことでいっぱいだ。農民が「苦しいです(ลำบาก)」と言うと、国王は、「どのくらい苦しいのか? ลำบากเท่าไหร่」とすぐ訊いてくださったそうだ。そして、「自分が苦しくない時は他の人を助けるように」とつけ加えられた。健康がすぐれない村人を見ると、「水がすべての源だから、清潔な水を確保するように」と助言。
国王と水、それは切っても切れない話である。国王は、農民に対して、貯水(เก็บน้ำ)と灌漑(ระบายน้ำ)を力説し、ダム建設(สร้างเขื่อน)も果たされた。池(สระน้ำ)からの放流(ปล่อยน้ำ)も教えられた。国王はいつも、「やれる(ทำได้」とおっしゃられて農民を勇気づけられもなさった。国王の声(น้ำเสียง)は力強かった。注意すべき時は本当に注意をしておられた。
国王の御歳を数えるのは、一般の「年 ปี」ではなくて、「雨 พรรษา」である。何回、雨季を経たかという数え方をするが、これを見ても国王と水は深い縁が有る。国王即位時、「灌頂 อภิเษก」という儀式が執り行われるが、これは頭の上に水をかける儀式である。
哀悼のタイ王国(11)
プミポン国王を追悼するテレビ番組のタイトルは、「พ่อของแผ่นดิน」。แผ่นดินには、大地、国土、国家、王朝、御代、といった意味があるが、タイ人にとっては、「国の父」と訳すのが一番親しみやすく感じられることであろう。
リケー芝居の演者に続いて登場したのは、オリンピックで金メダルを獲得したボクシング選手であった。タイ・ボクシングは国技であるから、国王からお褒めの言葉をいただくのは当然のことだ。そして、重量上げの女子選手も、自分が経営するジムで哀惜の気持ちを表明した。
音楽関係者達は国王の御教えを述べた。「คนดี สงบ คิดดี」、そして、「รักกัน สามัคคีกัน」
仮面劇の仮面を作っている方達も、工房で思い出話を語った。
しかし、何よりも多く取り上げられたのは地方行幸をなさる国王の御姿であった。
哀悼のタイ王国(10)
バンコク第2日目(10月20日)、朝5時からテレビをつけた。盲目の女性が美しい声で歌っている。4歳で失明した彼女は、現在、ランシット大学生。国王が作曲された歌をこれからもずっと歌い続け、若者に聞いてもらい、後世に永遠に残して行きたいと語った。
画面は変わって、伝統芸能であるリケー(ลิเก)芝居の役者がインタビューに応じていた。国王の庇護を受けたことをとても感謝していた。ラーマ5世時代にマラヤ(=マレーシア)から入って来たこの大衆演劇は、今から50年前までは街中にリケー小屋が有り、人々は寸劇を見ながら爆笑していたものだ。約40年前、私はそのリケー芝居を見たいと思い、バンコク在住の若いタイ人に「どこへ行けばいいですか?」と尋ねたことがあるが、「もう有りません」と、すかさず言われた。
だが、テレビに押されて街中から消滅したリケー芝居の役者を、国王がずっと激励し続けて来られていたことを知り、国王の伝統芸能に対する恩寵は慈悲そのものであると感じ入った。
