哀悼のタイ王国(22)

 タイとの御縁の深さを国王に感謝してずっと平伏していたら、周囲のタイ人達はもう立ち上がっていた。タイでは正式な座り方が横座りだから、そのようにしていたら、いざ立ち上がろうとすると、なかなか体が動かない。困った、困ったと思っていたら、誰かが手を差し伸べてくれた。嬉しかった。
 隣室に移動すると、そこには長机がいくつも置かれていて、役人らしき人達が座っていた。拝礼が終わった人々が記帳する場所であった。私もその記帳台で名前を書いた。タイ人達の署名はいずれもきれいな書体であった。そこに「吉川敬子」と漢字で書くと、なんとなく違和感が有ったので、署名は英語とタイ語の両方でした。
 外に出ると、大勢の人達が屈託なく記念写真を撮っていた。女子高校生達からシャッターを押してくださいと頼まれたので、心よく応じた。彼女達が母親となった時、我が子に向かって、この日のことを語り継ぐことであろう。

哀悼のタイ王国(21)

私は平伏している時、国王に話しかけた。「1969年から今日までの47年間、タイに関する仕事をして参りました。駐日タイ大使館に勤務していた4年半は、まるでタイ王国に住んでいるかのような環境でした。私の頭の上をタイ語が行き交うものですから、タイ語を勉強したくなりました。最初は独学でした。そのうち、当時、都内に唯一有ったタイ語教室へ通い始めました。よく出来るからということで、4ヶ月目からは授業料免除になりました、そして、半年後からはタイ語を教えたらと言われ、もう先生を始めました。先生をするからには、資格が欲しいと思い、東京外国語大学大学院に進学したのです。そして、院生の時から、アジア・アフリカ語学院でタイ語を教え始めました。42歳の時から泰日文化倶楽部を主宰しております。現在まで大勢の方達にタイ語を教える機会に恵まれ、大変に光栄に思っています。70歳になりましたので、来年3月で上智大学は定年です。4月以降はいつでもタイに来て、長い休暇を過ごそうと思っていました。もう国王はいらっしゃらないのですね…..」

哀悼のタイ王国(20)

いよいよ宮殿の一部に設けられた拝礼室の階段のところまで近づいた。靴を脱ぐ必要はなかった。中に入ると、2m位の間隔で、カーテンと木製の板が交互に立てかけられていた。カーテンは微風を受けて、少しだけ動きを見せ、まるで内部へいざなってくれているかの感じがした。
 庶民が礼拝するのはその場所どまり。しかしながら、この宮殿の奥のいずこかに国王の御棺が安置されているかと思うと、距離感が縮まったことを光栄に思った。
 1回の拝礼に70人位が床に平伏した。私もプミポン国王に恭順の気持ちを込めてお別れをした。今から10年前、即位60周年の時に、王宮前広場の沿道に早くから陣取り、国王の御姿を10m先で拝顔したことが、昨日のことのように思い出された。その時の国王の御姿は、タイ王国の国王として威厳と慈悲に満ち満ちておられた。そして、今は、王宮の奥深くで永遠の眠りについておられる。

哀悼のタイ王国(19)

テントの下の検問所はなんなく通過した。というか、警官は善良なる市民の悲しみにくれた顔を見て、何ひとつ疑う様子もない。王宮前の道路を渡って、いよいよ門の中に入った。黒服の人々が4列で長々と並んでいた。拝礼場所の入り口まではまだ遠い。時計を見ると、丁度12時であった。
 炎天下で並ぶ覚悟を決めた。暑いなあと思っていたら、隣りで並んでいた中年女性が折りたたみ傘を開き、私に半分さしかけてくれた。その優しさが身にしみた。傘の下で、私達は姉妹になったような気がした。
 拝礼場所の近くまで来ると、テントが張ってあり、並んでいても苦にならなかった。誰かが警備の人に向かって尋ねた。「写真を撮ってもいいですか?」 
 すると、彼は当意即妙に答えた。「かまいません。しかし、ここでいくら写真を撮っても、王様はもうお出ましにはならないですよ」 
 それを聞いた市民がどっと笑った。悲しみの中の笑い。タイ人の明るさに安堵した。

哀悼のタイ王国(18)

 芸術大学の学生達が描いたプミポン国王の絵の前で、大勢の人が記念写真を撮っている。そこで、私も写真におさまった。
 王宮にはたくさんの門があるが、最初に通りかかった門には衛兵が立っており、王宮内から出て行こうとしている高級車に向かって敬礼をしていた。高位高官の方達が拝礼をすませて出て来ているところであった。
 庶民が入れる門はまだまだずっと先だ。並んでどんどん入って行く様子が見えた。ああ、もう少しだと思っていたら、直接、門に入れるわけではなくて、反対側の道路上に設置されたテントの中を通過しなければならなかった。警官が立っていたから、荷物検査が有る様子だ。
 しかし、テントの横にはたくさんのボランティアがいて、水や気つけ薬や強壮剤を大きな声を出しながら配っている。中には、かぼちゃを油で揚げながら、「さあ、食べて食べて」と盛んに勧める。新聞に包まれた熱々の揚げかぼちゃを私は急いでほおばった。だが、待てよ、私はかぼちゃを食べにここに来たのではない。主たる目的は王宮へ行き、拝礼し、記帳することだ。

哀悼のタイ王国(17)

土産物屋には王家の写真や絵葉書がいっぱい売られていた。私は額縁に入ったプミポン国王の写真立てを2つ、そして、写真を10枚ほど買った。泰日文化倶楽部のタイ人講師へのお土産にしようと思ったからである。
 薄暗い屋根に覆われていた土産物屋を出ると、急に視界が開けた。遠くに王宮の白壁が見えた。黒服の人々が皆、同じ方向に向かって歩く。シラパコーン大学(=芸術大学)の学生達が大学の白壁に描いた国王の絵がいくつも有った。国王を思慕する学生達の絵筆は確かなものであった。写真で見る国王よりも、慈悲のまなざしが強く感じられた。学生達は国王への気持ちを表わすには、今、この時しかないという思いで白壁に向かい、そして、一心不乱に描いたにちがいない。

哀悼のタイ王国(16)

久しぶりに船に乗ったが、チャオプラヤー河は満ち満ちていた。途中の船着き場はどこも黒服のタイ人であふれかえっていた。船にのりきれるはずがないから、皆、ただ待つだけの様子だ。
 船に乗っている間、私は10年前に挙行されたプミポン国王在位60周年を祝う御座船行列を実際に見た時のことを思い出した。歴史的絵巻物語は、私の脳裏にしっかりとおさまっている。
 ターチャーン船着き場に着くと、皆、土産物屋のトイレへと向かった。トイレ使用料は一人5バーツ。一日男女合わせて2千人は使用する勢いだ。2千人x5バーツ=1万バーツ(約3万円)。1ヶ月で90万円ものお金が転がり込んでくる….。店先に、置物ではなくて、本物の猫がいた。その猫も黒。毛がつやつやしていた。猫も喪に服していた。

哀悼のタイ王国(15)

バンコク第3日目(10月21日)、王宮へ記帳に行くことにした。サイアム駅からサパンタクシン駅までBTSで行き、船着き場で並んだ。すでに大勢の人達が並んでいるのを見て、覚悟を決めた。目指すはターチャーン船着き場。
 船に乗り込むと、幸いにも後方の右船べりに席が空いていた。そこに座って、チャオプラヤー河の景色を眺めながら写真を撮った。1903年から3年間、日本女性(安井てつ女史)が校長をしていたラーチニー女学校(王家の子女のための学校)を、40年前に取材したことがあるが、ラーマ5世時代に建てられたそこの校舎が目に入って来た。
 しばし、昔の情緒に浸っていると、大波がざぶんとやって来て、ピシャリとしたかと思うと、私の身体は全部びしょ濡れになった。よける余地もなかった。目の中にまで河の水が入ったことに気づく。これぞまさしくチャオプラヤー河の洗礼か?

哀悼のタイ王国(14)

バンコク第2日目(10月20日)も、午前5時から昼まではテレビの前に釘づけになり、タイ人の胸中を間接的に取材した。王宮では僧侶供応のために毎朝、王族達が朝食を差し上げる儀式が執り行われている。僧侶達は各寺から交替で読経を唱えている。
 昼過ぎ、ホテル近くのタイ料理店へ行く。人が入っていない。窓越しに行き交う人を見たが、気のせいだろうか、まばらな感じがした。マーブンクローン(MBK)まで歩き、中の賑わいを確かめたかったが、金を売っているコーナーのうち、3つがテナント募集中であった。不景気の前兆?
 MBKを出て、国立競技場まで行くと、王宮前広場へ行く無料のワゴン車が数台、並んでいた。「おばさん、飲み物、どうぞ」と、若者達から呼びかけられた。王宮前広場へ行く一人だと思われたらしい。有り難く頂戴し、近くのコンクリート壁のところに腰を下ろして喉をうるおした。その後、すぐそばで、高齢の老人がセピア色の王室写真の複製を売っていたので、20枚ほど、買った。

哀悼のタイ王国(13)

番組のタイトルは「พ่อของแพ่นดิน 国父」だが、テレビは延々とタイ国民の哀悼の意を伝え続けた。まさに、「แผ่นดินน้ำใจ 御心の国」であると、アナウンサーは語った。
 地方在住のタイ国民は喪服姿で県庁や役場の広場に集まり、「I♡๙ ラーマ9世を愛します」という人文字を作った。或る県は999人、或る県は9999人で亡き国王へ哀悼の意を表した。
 国民は言う。「ไม่ได้พูดอะไรเลย แต่ใจเดียวกัน」、「ไม่มีพ่อ ไม่มีวันดี ไม่มีประเทศไทย」、「มีชีวิตความเป็นอยู่ที่ดีขึ้น」、「พระมหากษัที่เสียสละ」
 マレーシアと国境を接するナラーティワート県在住のイスラム教徒は、「รักมากกว่าชีวิตตัวเอง」と語った。
 サムットサーコーン県の漁師はこう言った。「พ่อมอบให้พลัง」
 北タイに住む山岳民族は、国王が家に来て一緒にご飯を食べて下さった思い出を語り、そして、「พ่อมีแนวความคิด เข้าใจธรรมชาติ ทำได้ดีเพื่ออนาคต」と哀惜を込めて胸中を吐露した。