プミポン国王はローザンヌ大学を卒業しておられる。そこで僧侶達と一緒にそのローザンヌ大学を見てまわることにしたが、当時とは異なり、現在は図書館になっていた。大学自体は、手狭なため、もっと広い場所に移っていた。だが、私は国王が上がり下りした階段を、実際に昇降し、そして、館内の空気を味わうだけで満足した。
その後、スイスにあるお寺が所有しているワゴンでレマン湖畔へ移動した。道路一本隔てた広い敷地にはタイのサーラー(ศาลา)が有った。本来であれば、プミポン国王ゆかりの地として、そこにタイの寺院を建てたかったそうだが、当局の反対にあって、サーラーのみとなった。ちょうど上野動物園の中に建てられているサーラーと同じ規模である。
そのあたりには、FIFAの本部やオリンピック委員会の本部が有った。幼少時、国王の散歩コースだったと思われる。
レマン湖畔には、あの偉大なる喜劇俳優であるチャップリン(1889-1977)の銅像が立っていた。彼も国王と同じく88歳で亡くなっている。
哀悼のタイ王国(41)
2006年にマサチューセッツ州ケンブリッジ市へ行った私は、プミポン国王が5歳から20歳までお住まいになっておられた場所の空気に触れたくなり、2009年11月2日、スイスのローザンヌへ行った。
バンコクからタイ航空でチューリッヒへ飛び、チューリッヒからローザンヌまでは電車で向かった。途中、タイのお寺が見えた時は感動的であった。そして、レマン湖も美しかった。ローザンヌの小高い丘に立ち、街の様子を見ていると、タイの僧侶と案内人に会った。早速、話しかけると、案内人は列車から見えたあのタイのお寺で奉仕している女性だと答えた。僧侶はタイから来られた方であり、プミポン国王のゆかりの地をまわっておられることがわかった。
「あなたもご一緒にいかがですか?」と誘われたので、一緒について行くことにした。
哀悼のタイ王国(40)
翌年1928年6月、父君の研究が修了したこと、そして、病気のため、御一家はタイへ帰ることになった。ヨーロッパ経由でバンコクに着いたのが1928年12月。プミポン国王はわずか半年でアメリカを去ったことになる。
父君はシリラート病院にインターンとして勤務を始めたが、あまりにも高貴な方であられたために周囲が遠慮するものだから、それではチェンマイの病院へ移ろうということになり、1929年4月から御家族も一緒について行く手筈になっていたが、何と悲しいことに病状悪化のため、父君は1929年9月24日、バンコクでお亡くなりになってしまわれた。
その時、プミポン国王は御歳わずかに1歳と約10ヶ月。父親の愛情は覚えているよしも無い。
母君は上の王子であるアーナンダマヒドン王子(後のラーマ8世)が身体が弱いことを心配されて、転地療養先としてスイスのローザンヌを選ばれた。母君は聡明なる女性であられたから、早速、フランス語をチュラロンコーン大学に学びに行かれた。
哀悼のタイ王国(39)
ケネディー大統領の生家から車で走ること3~4分で、プミポン国王が幼少時に住んでおられたアパートに到着。姉君が「แฟลต フラット」と書いておられるが、確かに2階建てのコンクリート長屋であった。何の変哲も無いアパートを見て唖然とした。だが1927年当時は新築であったのかもしれない。
ラーマ5世の第69番目の親王であられる父君のプリンス・マヒドン、そして、平民出身で、タイ女性として海外へ留学した最初の女子学生としての母君。お二人が選んだ住居は研究者に相応しいアパートであった。そこに一人の女の子(姉君)と二人の男の子(後のラーマ8世とラーマ9世)が住まわれていたことになるが、周辺のアメリカ人には知るよしもなかった。
哀悼のタイ王国(38)
ハーヴァード大学の付属病院であるMt.Auburn病院は赤レンガ色が主体の明るい感じの建物であった。プミポン国王が誕生された時と同じ建物ではなくて、建て替えられたものであるのは明白だが、歴史的な場所に来ることができただけで、私は嬉しかった。タイ人がマサチューセッツ州に観光に来た際のツアーコースに入っているそうである。
教えられた産婦人科病棟へ行くと、エレベーターホールに、国王と王妃の大きな御写真がそれぞれの額縁におさめられて、仲良く並んで飾られていた。病院側のタイ国王に対する敬意の念が十分に感じ取れた。
プミポン国王の御父君であられるマヒドン王子は、当時、ハーヴァード大学で医学の研究を続けておられた。病院を出た私は、次にご一家が住んでおられたアパートへと向かった。住所は、ブルックリン ロングウッド通り63番地。
途中、同じエリアに、あのケネディー大統領の生家が有った。Brookline, Beals Street 83。アメリカの歴史的場所なので寄ってみた。1917年5月29日に生まれたケネディー大統領の生家と、その10年半後の1927年12月5日に誕生されたプミポン国王がわずか半年だけお過ごしになられたアパートはものすごく近かった。
哀悼のタイ王国(37)
2006年6月9日、私はプミポン国王の在位60周年記念行事のパレードを、王宮前広場近くの沿道から観た。そして、国王の御姿をしっかりと目に焼き付けることができた。夕方5時からはチャオプラヤー河のトンブリ側に設えられた桟敷席で御座船の一大パノラマを観戦。
帰国後、私は国王がお生まれになられたマサチューセッツ州ケンブリッジへどうしても行ってみたくなった。国王の姉君(สมเด็จพระเจ้าพี่นางเธอ เจ้าฟ้ากัลยาณิวัฒนา)がお書きになられた『แม่เล่าฟัง 母が語りしこと』(บริษัท หนังสือสุริวงศ์บุ๊คแซนเตอร์ จำกัด 1980年初版)を愛読しており、その中に、お生まれになられた病院と住んでおられたアパートの記述が有ったからである。
「วันที่5เดือนธันวาคม พ.ศ.2470(ค.ศ.1927)น้องชายคนที่สองของข้าพเจ้า พระวรวงศ์เธอพระองค์เจ้าภูมิพลอดุลยเดชประสูติที่โรงพยาบาลเมานท์ ออเบอร์น(Mt.Auburn)ในเคมบริดจ์」
2006年9月22日、私はMt.Auburn病院へ行った。病院はハーヴァード大学から歩いて7分位のところに在った。受付の女性に「タイ国王のことを取材に来ました。産婦人科の病棟はどこですか?」と尋ねると、「タイのテレビ局から来たのですか?」と、反対に訊き返された。
哀悼のタイ王国(36)
テレビでは国王が御発案された「王室プロジェクト โครงการพระราชวัง」のことが次から次に紹介された。
「国王はお住まいであるチットラルダ宮殿の敷地内にいろいろな工場を作りました。地方巡幸された折り、子供の体格のことを心配され、仏暦2512年にはミルク工場を起ち上げました」
仏暦2512年? この2512年という年は、私にとって、とても印象に残る年である。西暦でいうと1969年だ。この年に、私はタイ王国大使館に就職し、毎日、書類番号の最後の数字として、2512という数字をタイプで叩いていた。
仏暦2512年は、プミポン国王、御歳42歳。国王は40歳から海外へ行かれることをおやめになり、国内の治世に全精神をそそがれた。唯一の例外は、1994年、27年ぶりに、ラオスへ行かれ、タイ・ラオス友好橋の開架式にご出席されただけだとのこと。
国王は、タイ国民のために、日夜、さまざまな計画(クローンガーン โครงการ)をお考えになられたが、それこそが、「国王として統治すること (ครองราช クローンラート)」にほかならない。
哀悼のタイ王国(35)
R先生の下のお嬢さんから、日本のアニメのことばかり聞かれた。上のお嬢さんも日本のゲームに関心が大いに有るとのこと。両親が日本に文部省留学生(1990年代当時)として留学しておられる超エリートだから、いずれ日本に勉強に来る日もそう遠くはないことであろう。
ホテルに戻って、再びテレビの前に陣取り、アナウンサーの美しい声に耳を傾けた。
「今日、王宮前広場に集まったタイ国民は昼夜合わせて30万人に達しました。国王から戴いた大いなる御慈悲(พระมหากรุณาธิคุณ)に対して、タイ国民は心を一つにして(ดวงใจเดียวกัน)、歌いました。今日は国民が団結した(สามัคคี)歴史的な日であります。夜は雨が降りました。しかし、タイ国民は一所懸命に歌いました。警察は警備の面では万全だと言っております」
哀悼のタイ王国(34)
タイ料理店のテーブルにつくや否や、私はR先生に尋ねてみた。「何年ぶりかしら?」
「25年ぶりです。バンコクでお会いするのは初めてです」と、R先生。私が想像していたR先生とは以前、バンコクでお会いしているので、やはり別人だ。それにしても、同じ名前! 偶然の一致。
R先生は、泰日文化倶楽部の講師ではなくて、朝日カルチャーセンターでのアシスタントであった。彼女は二人のお嬢さんを連れて来られた。二人ともサイアム駅近くの音楽教室でバイオリンとフルートを習っているとのこと。前日の夜、家庭でホームコンサートをやったビデオを見せてくださった。曲目は「国王讃歌」。素直な響きに感動を覚えた。
哀悼のタイ王国(33)
10月22日(土曜日)の夜7時に、元タイ人講師のR先生とお会いする約束が有った。R先生は、現在、タイ花王の取締役をしておられる。泰日文化倶楽部のB先生から、R先生がかつてタイ花王に勤務していた時の上司であったことは、いつも聞かされていた。そして、目下、私のところにホームステイしているタイの女の子をどうしても世話してほしいと、B先生から強力に頼み込んで来たのもR先生であるということなので、今回は是非とも会っておきたいと思った。
「あのー、7時の予定でしたが、6時に変更してもいいですか?」という電話が5時半にかかってきた。準備万端で待っていた私はすかさず快諾した。タイ人は約束の時間に遅れて来るものだが、さすが日系企業に勤めているだけのことはある。
そう思いながらロビーに行くと、知らない女性が私に向かって元気よく手を振っている。私が思っていたR先生とは全く別人であった。怪訝な顔をしながら、彼女について近くのタイ料理店へ向かった。私の記憶がおかしい?