無事に大学を定年退職した自分を祝って、私は高田馬場駅近くの日本料理店で鯛のお頭を注文した。いつもはまぐろ丼か海鮮丼、あるいは刺身定食を食べるのだが、晴れの日はやはり何と言っても鯛。
お膳に出て来た鯛のお頭を見てびっくり。何故ならば、優勝した力士が祝賀会で右手に高々と持ち上げるあの鯛くらいの大きさであったからだ。いや、それは誇張しすぎ。しかし、私には大きく見えた。そして、鯛の横顔が私をにらみつけていた。
恐る恐る身のほうから食べ始めた。頭はあとにした。すると、鯛は私をますますにらみつける。何故、ゆっくりと食べるかと言うと、鯛の骨は強烈な硬さを持っており、小骨であろうとあなどれない。そして、いよいよ箸が頭の部分に入っていった時、私は鯛の頭の中の骨が鉄骨のようにがっちりとしていることを知った。さすが魚の王者である鯛。
鯛と格闘しながら食べること30分。食べながら思った。鯛は鯛で手ごわいが、翻って考えれば、タイという国を理解するのもなかなか容易ではない。タイとの闘いは死ぬまで続く。
ファティマの聖母
70歳で定年のため、19年間、勤務した上智大学を退職した。大学を去る日、隣接するイグナチオ教会へ行き、中央の壁に掛けられたキリスト像に拝礼をして、そして、献金箱に気持ちを表わした。
その後、同じ敷地内にある書店に寄って、自分のために記念品を買った。上智大学での教鞭生活を一生忘れないようにするためである。そこはカトリック関係のものばかりしか置いていない。私が選んだのは、蛍光スタンドの台に置けるイタリア製の置物(4x5cm)で、「ファティマの聖母」というブロンズであった。聖母に向かって、3人の牧童が素直に聞き入っている姿が気に入ったからである。
帰宅後、調べてみると、1917年5月13日、ポルトガルの寒村であるファティマ(リスボンから約150Km)に、聖母が突如、出現したそうな….。今年は2017年。丁度、100年前のことになる。私は自分が太って(ファット fat)いるので、親近感を持ってファティマの聖母を選んだが、それは単に語呂合わせにすぎなかった。ブロンズの彼女はすらりとして美しく、後光が射している。
宮古島から年賀状
鹿児島県在住のY子さん(元生徒)から、「旧暦元旦2017.1.28」の日付が入った年賀状が昨日届いた。しかし、よくよく読むと、鹿児島県からではなくて、宮古島からのものであった。Y子さんの文章が冴えているので、失礼を承知で、記録も兼ねて以下に筆写させていただく。
「吉川先生、たいへんごぶさたしております。お元気でしょうか? この度、主人の仕事の関係で、宮古島に引っ越しました。このまま順調に南下すれば、いづれタイまで行けそうです(笑)。タイでよく見た木や葉や花、海の青さに日々癒されています。吉川先生、ますますお元気に、ご活躍されますことをお祈りします。ยูกิ」
裏面の写真は5才になる坊やが水平線に沈む夕日を見ているもので、とてもあどけない。海も夕日も自然そのもの。坊やも自然。宮古島ってどんなところだろう?
タイ語はタイ人気分で!
タイ語のテストをすると、日本人は数字をよく間違える。テストをする前に、「タイ数字の4は[sii シー สี่]、そして、10は[sip สิบ シップ]ですよ、くれぐれも注意してくださいね」、と言うことにしているが、これがなかなか聞き入れない場合が多々ある。
目下、期末試験を採点中であるが、[sip wan สิบวัน]というタイ語を、[6日]と訳した大学生がいた。「あれあれ?」と思ったが、よく考えてみると、彼らは英語の[six]と混同したらしい。
こういう事例は他にも有る。タイ数字の[5 ハー]を、日本語の[8 ハチ]と間違える人が多い。あわてて混同しまくりだ。
このような失敗を防ぐにはどうすればいいか? 私の意見は、早くタイ気分に染まることが大切。日本語や英語が頭の中にごちゃごちゃしていると、タイ語が入っていかない。タイ語を習う以前に、タイ人的気分にはまること! 言い換えれば、タイ語の環境に少しでも触れ、タイ人になった気分でタイ語を話す姿勢を早く習得する必要がある。
ディア先生 有難う!
昨晩(1月31日)をもって、約2年間ご指導いただいたディア先生が泰日文化倶楽部を辞した。修士論文の最後の追い上げと、本帰国の準備のためである。
ディア先生は東京海洋大学の大学院生だ。泰日文化倶楽部では、ここ10年間にわたり、東京海洋大学に留学中であるタイ人留学生を講師に採用して来た。文科系の学生は学生なりに長所はあるが、理科系の学生のほうが感情におぼれず理論的だから、90分間の授業で、タイ人の理性を日本人の生徒達に示してほしかったわけである。
退職にあたって、後任者を紹介してもらいたかったが、諸事情によりそれはかなわなかった。そこで、東京医科歯科大学に留学中の超優秀な青年に依頼することとなった。「タイ語中級火曜日19:00」の生徒の皆さん、新しい先生のすばらしい日本語を阻止すべく、大いにタイ語を話すようにしてください!
いすれにせよ、ディア先生、泰日文化倶楽部の生徒達にタイ語を教えて下さって心より感謝申し上げます。帰国後のご活躍を祈念いたします!
春寒耐えがたき折柄
今日で1月(เดือนมกราคม)は終わり。手紙や葉書を出す場合、「春寒耐えがたき折柄」という出だしで書くものらしい。だが、昨日の東京は、昼間は19度もあった。5月(เดือนพฤษภาคม)の気候だった。とはいえ、夜はどんどん冷えて行ったから、体調管理が大変。
さて、泰日文化倶楽部の皆さん、1月の授業成果は有りや無しや? どんな勉強もそうだが、結果はそうそう見えるものではない。要は個々人の心構えが肝心。自分に厳しくするのはなかなかできない。ついつい甘やかしてしまう。
2月(เดือนกุมภาพันธ์)は28日しかないから、あっと言う間に終わるのは毎年のこと。学習目標の設定をし直して、なんとしてでも成果を出そう。①語彙力の増強。②正しい声調、正しい発音。③文法力の向上。④表現力の充実。⑤自信を持って話す。そして、⑥タイへ行く機会を増やす。
蛍雪と夜学蓋置
昨日、茶道教室に参加すると、小正月を祝って、<鶴>にまつわるお道具が取り揃えられていた。生徒さんの一人が亀甲模様の帯を締めて来られたので、茶室の中はますます目出度さを増した。
一方、ふだんあまり気にもとめない柄杓(ひしゃく)の蓋置だが、昨日、先生がご用意してくださったものは、「夜学蓋置」と言うそうだ。その名前の由来を調べて見ると、「夜に学問をする際、机上を照らす灯明の火皿の台を転用したもので、甕形の四方に火灯窓のような大小の透しがある形の蓋置」と出ていた。
昔、『蛍雪時代』という受験雑誌が有った。その時から、<蛍雪>という言葉には親しんでいたが、蛍も、雪も、中国の故事によれば、灯りを暗喩している。「蛍の光、窓の雪」もこの故事にならって作詞されたとのこと。
茶杓の裏には雪の結晶が描かれていた。雪灯りで勉強するとは、なんと風流であることよ。
英語は使い続けないと………..
昨晩、アメリカ生まれで、ずっとアメリカに住んでいる甥が10年ぶりに東京に遊びに来たので、泰日文化倶楽部の近くにある鰻店で一緒に食事をした。食事後、甥を教室に連れて行き、ゆっくりと話をした。合計3時間、全て英語である。
会う前は緊張していた。何故ならば、英語の中にタイ語が混じるのではないかという心配が有ったからである。確かに1%位はタイ語が出てしまったものの、自己採点をしてみたところ、99点。甥だから話しやすかったのかもしれない。そして、甥が私のレベルに合わせてくれたのが幸いしたのかも….。
甥が言った。母方の従兄と以前は英語で通じたのに、今は通じない。何故ならば、英語を使っていないから、と。
我々日本人はいつも嘆く。「学校で何年も英語を勉強したのに話せない」 大人になってから英語を使う環境にいなければ、英語は忘れてしまう。従って、自己の考えや意見を適格に述べるためには、英語を話す環境を自ら求め、それを維持させる努力を自分に課さなければならない。
南蛮菓子「有平糖」
小原流の月刊誌『挿花』(2015年11月 No.780)の中に、溝口政子さんという方が連載している「こころがつなぐ世界のお菓子」という欄が有り、副題として、<メキシコと日本はお菓子な兄弟>という文章を見つけた。可笑しな副題だ。そこで、興味を示して読んだ。
溝口さんの文章を要約すると以下の通りである。「メキシコにも日本のお盆のような行事が大切にされており、祭壇に砂糖菓子(アルフェニア)が供えられる。このお菓子はスペインからもたらされたものであるが、そのスペインは、イスラム帝国の支配を受けた時代に、アラビアの高度な砂糖文化を手に入れたのです。<中略> この砂糖菓子は、南蛮菓子の有平糖(あるへいとう)の一種として日本へ伝わったようです。日本とメキシコは、ともにアラビアの製法と、アラビア語の定冠詞al(アル)が付く名称をも受け継いだ兄弟と言えるのです」
この南蛮菓子、たしか、昔はお供え物でよく見かけた。「有平糖」が日本に伝来した由来をネットで調べてみると、いろいろと面白いことがわかった。ポルトガルからの多くの宣教師達が手土産に使ったようだ。かのザビエルも然り。
タイ王国大使館時代の元同僚
昨日、見学希望者から電話が有った。普通であれば、「どうぞいつでもご見学にいらしてください」と言って電話を切るが、彼がタイ駐在生活から帰って来たばかりだと言ったので、「それじゃあ、もう話せるでしょう。それなのに帰国してすぐにタイ語を勉強したいというのはすばらしいことです」と、私は彼の意欲を褒めた。
すると、「実は私の父はタイ人です。母は東京で40年間、タイ料理店をやっています」、と言った。それを聞いた途端、私はもっと情報が欲しくなり、彼にいろいろと尋ねることになってしまった。
私は彼のご両親のことを知っていた。特にお父様であるP氏とはタイ王国大使館勤務時代(1969-1973)からの知り合いであった。現在、84歳になられたとのこと。とても懐かしい。そして、P氏と同じ大学(日本の東北地方)を出た無二の親友であるS氏がもうこの世の人ではないことを、P氏の息子さんが教えてくれた。S氏と私は大使館の同じ部屋で4年半、気難しい上司のもと、一緒に働いた。P氏もS氏もタイ人留学生の先駆けであった。