千種・千人・千様

作家の五味康祐(1921-1980)が、小林秀雄との対談「音楽談義」(註:小林秀雄全作品二十六巻『信ずることと知ること』所収)の中で、「千種、千人、千様の音色」という言葉を使っている。話を補足すると、そのすぐ前の文章で五味はこう語っている。「当人はいいと思っている音でも、ほかの人が聴けばなんてひどい音だろうということがよくあるんですね」、と。

「千種、千人、千様」は、「十人十色」というのと、その言わんとすることは同じだ。しかし十の単位がいきなり千の単位になると、イメージとしては俄然、多くの人の感性が想像できる。

先日、大阪で街角ピアノのことで物議をかもしていた。下手なピアノは聴きたくない。家でもっと練習して来い。一人がピアノを独り占めするな、等々と、明け透けに言う人達がいたようだが、ルールを決めてお互いに歩み寄り、優しい理解が欲しいものである。皆、千差万別なんだから。

今日の語彙

1.世界地図      2.九州地方

3.地場産業      4.地域経済

5.デパ地下      6.地震予知

7.震源地       8.地盤沈下

9.埋立地      10.窮地に陥る

11.意地をはる   12.居心地が悪い

地震のお見舞い

昨日(2025年3月28日)、ミャンマー中部を震源地とする大地震が発生し、ミャンマーとタイの両国はかつてない被害をこうむりました。被害状況はこれからますます増えて行くでありましょうから軽々にものを言うことは控えますが、不運にも命を落とされた方々、及び、両国の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

私の携帯にたくさんの動画が送られて来ましたが、いずれも信じられない光景であります。タイ人が逃げまどいながら、周辺の人達に向かって、”อย่าชะล่าใจ”と言っているのが印象的でした。これは、「気をぬくな」とか、「油断するな」という意味です。余震を恐れての警告だと思いました。

ミャンマー人からも写真が送信されて来ました。傾いた寺院や建物、寸断された橋……..。これらの修復にはとてつもない時間を要しそうです。特にミャンマー中部のマンダレーがやられていますが、旅行で行ったことが有るだけに気の毒でたまりません。

方言指導

某劇団の某俳優(女性 83歳)の履歴を見ていると、特技として、仕舞、謡、社交ダンス、方言指導(広島弁)と書いてあった。劇団員になったのが1965年だからもう60年間も図太く芝居に励んでおられることになる。仕舞で体の根幹の動きを体得し、謡をうなって咽喉と声を鍛え、社交ダンスでパートナーと呼吸を整える努力。これらすべては演劇の肥やしになっているに相違ない。

一方、方言指導という言葉はドラマのクレジットでよく見かける。これもまた特技であり、仕事に通じるのであれば、私だってできる(讃岐弁)。教科書は何もない。だが、唯一、体の中に沁みついた発声の仕方が何も考えることなく、次から次へと奇妙な響きとなって出て来る。努力は無用。生まれ落ちたところに感謝。

今日の翻訳

『พระพุทธศาสนา』(タイ国教科書小学2年生向け พ.ศ.๒๕๕๓)の第1章の最後のページから出題する。「ให้」の使い方、及び、「เป็น」と「คือ」の使い分けを以下の文章から学ぼう。

๑. พ่อสรุปว่า “พระธรรมคำสอนของพระพุทธเจ้าได้ฝังลึกอยู่ในจิตใจของคนไทย และแสดงออกมาเป็นศิลปวัฒนธรรมอย่างที่ลูกๆเห็น

๒. กลายเป็นลักษณะเฉพาะของชาติไทย ที่เรียกกันว่าเอกลักษณ์ของชาติ จึงกล่าวได้ว่า พระพุทธศาสนาเป็นเอกลักษณ์ของชาติไทย

๓. ชาวพุทธจึงควรศึกษาพระพุทธศาสนาให้เข้าใจอย่างถูกต้อง และนำมาปฏิบัติในชีวิตประจำวันให้ได้

๔. ถ้าลูกทำได้อย่างนี้ก็จะเกิดผลดีทั้งแก่ตัวเองและแก่พระพุทธศาสนา ผลดีแก่ตัวเองคือได้เป็นคนดีตามวิถีพุทธ

๕. ผลดีแก่พระพุทธศาสนา คือ ได้ช่วยสืบอายุของพระพุทธศาสนาให้เจริญมั่นคงต่อไปได้นาน เข้าใจไหมลูก”

壺屋焼

先日の茶道教室で使われた茶碗は沖縄の壺屋焼で、作は人間国宝の金城次郎氏。絵付けは彼の得意とする魚紋であった。魚が伸び伸びと描かれすべての線が生きている。茶碗を手に持つと素朴さが伝わってきて、白いご飯を盛りたくなった。まさしく柳宗悦の民藝運動の影響が観て取れる。

その茶碗の魚紋を見ているうちに、どこかで見たような気がして来た。あっ、タイの陶器の模様と似ている。現に私の机上に置いているタイからのお土産のコーヒーカップも魚紋だ。沖縄はかつて中継貿易地として栄えた。沖縄とタイの関連性としては泡盛が特に有名だが、陶器からも東南アジアを感じることができる。

魚行水濁

今月の茶道教室に於ける掛け軸は色紙に墨黒々と書かれた漢字4字で、「魚行水濁」という論語であった。読み方は「うおゆきて みずにごる」。

春になり水ぬるむ頃、魚の動きが活発さを増し、水の中を泳ぎまわる魚が幾重にも重なる。そしてそれが自然界だけでなく、人間の営みをも刺激すると、私は勝手に解釈した。

ところがである。この論語の意味は、「魚が泳ぐことで水が濁る様子から、起きたことは隠せない」だそうだ。そして、本来であれば、さらに「鳥飛毛落(とりとべば けおつ)」と続き、「魚が泳げば水は濁り 鳥が羽ばたけば羽が落ちるように、人の行動には必ず痕跡が残る」という意味になるとのこと。ああ、論語よ論語。簡潔な表現の中に、その意味たるや何と深し…..。

今日のタイ語作文

1.タイの子供も将来の職業として一番なりたいのがインフルエンサーだそうだ。

2.インフルエンサーは果たして一生の仕事になり得るのであろうか?

3.最近の大学新卒者は先生や警察官になりたがらない。

4.親の家業を継ぐ子供は非常に少ない。そして親も子供に強制しない。

5.シャッター通りは由々しき問題だ。いろいろな職種の店舗が復活することを望む。

หมอสู

昨日土曜日の授業で、産婦人科医のことが話題になった。歯科医であるタイ人講師にタイ語で何と言うかと尋ねると、白板に「สูตินรีแพทย์」と書いてくださった。「しかし、タイ人同士の会話では หมอสู(モー・スー) と手短かに言います」と、彼女。なるほど、タイ人らしい。

たしかに、หมอสู(モー・スー)ならとても呼びやすい。それに親しみが持てる。日本料理店の料理人を「板さん」と呼ぶ乗りと同じかな?

สูตินรีแพทย์ の中の < นรี 女>だが、合成語によっては <นารี 女>とも書く。『タイ日辞典』(冨田竹二郎編纂)によると、「นรี/นารีは、นร(人、男)の女性形」と出ている。

体力・財力・気力

昨日、近所の診療所へ行き2月の血液検査の結果を聞いた。「数値は全て良し。栄養もいいですね。貧血もありません。金欠かどうかは知りませんが…..。百歳まで頑張りましょう!」と医師。私よりも20歳年下の彼は明るい。そしていつも一言多い。しかし、その一言が患者にいい意味の刺激を与えてくれる。

百歳まで生きるのには体力、財力、気力が必要だ。いずれが欠けても楽しくない。そう思いながら教室まで歩いた。途中、初めての定食屋に寄ってランチ。広島カキ定食を注文。衣が焦げ茶でがっかり。後から来た客もカキフライを選んだ。だが、彼の皿を見ると、きれいなキツネ色。注文時間がわずか10分異なるだけでこうも違うとは……。カキの季節はそろそろ終わる。よし、もう一度、挑戦だ。挑戦の源は体力・財力・気力なり。