今年5月に亡くなった詩人の長田弘氏が著した『なつかしい時間』(岩波新書 2013年)の中に、「記憶を育てる」という項目がある。次なる引用は、結末の文章である。
「人の考える力、感じる力をつくってきたのは、つねに記憶です。けれども、もっぱらコンピューターに記憶をゆだねて、自分を確かにしてゆくものとしての生きた記憶の力が、一人一人のうちにとみに失われてきているように見える今日です。あらためて、人間的な記憶を日々に育ててゆくことの大切さを、自分の心に確かめたいものです」
長田氏は、こうも言っている。「自分の記憶をよく耕すこと。その記憶の庭にそだってゆくものが、人生とよばれるものだと思う」
語学だけ出来ても、別にたいしたことではない。人間的に成長をとげるためなら、他に方法がいくらでもある。だが、外国語が好きな方は、一つの外国語に取り組み、その国や人々を知ることによって、もっと学習意欲を掻き立て、さらに前向きになる。単語から表現へ、表現から文章へと進んでいけば、外国語はどんどん面白くなる。単語だけの単なる記憶ではなくて、学習する過程において、文章構成力をつけながら、自分をよく見つめるということが大切であり、それが人生となっていくのであろう。
ฎ (ドー・チャダー) というタイ文字
7月もそろそろおしまい。私はいつも、その月の名称を生徒にタイ語で書かせているが、月名を正しく書ける生徒は少ない。それだけ難しいということか….。
7月は、กรกฎาคม(カラッカーダーコム)。ฎ(ドー・チャダー 冠)の文字を使った単語は、初心者が使うテキストにはなかなか出てこない。例:กฎหมาย(法律)
辞書を引くと、この文字が単語の頭に使われる単語は、たった一つだけしか挙げられていない。すなわち、ฎีกา(ディカー)=直訴。
タイでは、直訴の手法が昔から有り、王宮の門前の銅鑼を叩いて、王様に直訴していた。日本でも農民や町民の苦しみを見て、あるいは、不条理な世の中に耐えかねて、直訴した話が有る。
今はいくら何を言おうが、その声は虚しくかき消されていく。お上はもっと一般の人々の良識ある声を聞くべきだ。
明治時代の留学
『竹内 好 ~ある方法の伝記』(鶴見俊輔著 岩波書店 2010年)の中で「留学」について、次なる記述が有った。
ー 明治に入ると、全五百七十例のうち清国が四例、香港が一例あるだけで、あとはすべて欧米である。その後、明治、大正。昭和と、海外留学の行く先は主に欧米にかぎられていた。陸軍から朝鮮にむけておくられた留学生はあったし、アジア諸国にむけての留学生は、国策の都合上、試みられてはいたが、それほど日本の青年の希望するところではなかった。欧米先進国の文明にまなぶのが、官民ともに望むところだった。そして、官費留学生の目標は欧米諸国にならって日本国家の富をまし、勢力を大きくすることにあった」
この内容は誰しもが首肯する点であるから、今更、批評を加える必要もない。だが、もしも、アジア諸国に留学した青年が多ければ、そして、アジアへの正しい理解が明治の頃からなされていれば、日本の近代史は違った方向に向かっていたのではなかろうか。
いずれにせよ、最近は日本の大学生のアジア留学が盛んになってきた。アジア諸国で多くのことを学び、その学んだことが、将来、国際関係において、大いに役立つことを願う。
「第99回アジア女性のための生け花教室」
7月25日、「第99回アジア女性のための生け花教室」を実施した。2007年1月から無料開講して8年半。タイ人的に考えると、「第99回」はおめでたい数字だ。
来月はいよいよ第100回を迎える。
一昨日の参加者には台湾からの女子留学生が入っていた。可愛いくて、素直な女性だ。日本滞在中に日本の文化を少しでも身につけてくれれば、それだけで嬉しい。
この日、生けた花の名前は、太藺(フトイ)と河骨(コウホネ)。太藺は、畳表をつくる藺草に似た植物。形は全然太くなくて、すらりとした細身(ほそみ)。一方、河骨は、スイレン科なので、葉っぱは睡蓮の小型版。根茎が細くて白いので、<骨>という漢字が当てはめられたようだが、聞いただけでは、どことなく気持ちが悪い。
しかしながら、太藺と河骨を生けると、涼が感じられた。生け花っていいなあ。
映像作家
昨晩、根岸の精進カレー料理店「オンケル」へ行った。屋上で隅田川の花火大会を見るためである。近くにタワー・マンションが建ったために、花火は少ししか見ることができなくなったらしい。だが、東京スカイツリーと花火の両方を見ることができ、大満足。
集まって来たお客さん達は約15名。オンケルの店主のお兄さんも参加。彼と私は3歳違いだから、話がよく合った。
「小さい頃からバスに乗って浅草へ行き、映画館で映画ばかり見てました。映像美に惹かれて、今の職業があります」
彼は世界遺産を撮影する映像作家だ。幼い時の体験がいかに大切であることか!
昨夜の集まりではまたまた偶然にも同郷の人に会った。これまでにも2回ほど会ったことがあるが、出身地までは知らなかった。私よりも10歳年下。丸亀の話でもちきりになった。
東京オリンピック2020まで、あと5年
昨日は、東京オリンピック2020まであと5年、というニュースで持ち切りだった。そして、今日のインターネットを見ると、「あと1826日」と出ている。
5年という時間は長いのであろうか? それとも短いのであろうか?
5年間、死にもの狂いで勉強すれば、希望の職種の資格が取れるはず…..。
5年間、真面目に働いて節約を心がければ、まとまった貯金ができるはず…..。
5年間、運動をきちんとすれば、健康な体を維持できるはず…..。
5年間、タイ語を学べば、難易度の高い語彙が増えるはず…..。
個人個人の意識と努力にかかっている。
鶴見俊輔氏の訃報
夜中3時頃、いつも目を覚ます。スマホで「今日のニュース」をチェックすると、哲学者の鶴見俊輔氏の訃報が目に飛び込んできた。93歳だから、天寿を全うされたことに違いはないが、ああ、残念。
鶴見氏の著作は実に読みやすく、かつ、面白い。読んでいると、さらなる興味を覚え、世界が広がる。彼自身の出自、体験、経験、及び、交友の幅が、並みの人間とは桁外れているからであろう。だが、彼は市井の人に向ける眼も優しい。毎日の出来事が、そして、すべての人々が彼の視界の中におさまる。『隣人記』(鶴見俊輔 晶文社 1998年)の中に彼はこう書いている。
「私は今七十歳をこえて自分の教養をふりかえると、生徒として学校にいた時間は十一年半にすぎず、教室よりも座談が、私にとっての教育の時間だった」
『鶴見俊輔座談/全10巻』(晶文社)のちらしを引用すると、「思想は対話に始まる。会って話した50年、200人。これは、まれにみる人物事典であり、比類ない哲学事典であり、心の手引きである。二十一世紀を生きる思想の種子がここにある」
夏休みに読もう!
老美女
一昨日、新宿から山手線に乗ると、優先席にとても美しい女性が坐っていた。たまたま彼女の隣りの席が空いていたので、座ってみた。するとその女性が私に話しかけてきた。
「お暑いですね」、と。私は軽く応じた。「そうですね」
「私、84歳なの」、と彼女。私は驚いたような仕草をした。しかし、本当に驚いたことは事実。老美女だったから。
「私、77歳まで働いたんですよ。エステは40歳からずっとやっておりますの」
「何のお仕事をなさっておられたのですか?」、と私。
「看護師です。40歳から学校へ行って、資格(คุณวุฒิ 又は คุณสมบัติ)を取りました。定年退職(เกษียณ)後も、仕事はいっぱい。面接すると、明日からすぐ来てくださいと言われたのよ」
大粒のエメラルド(มรกต)の指輪が美しかった。もちろん、洋服も緑。色合わせがすばらしい。林住期に入った彼女には余裕が見られた。
同郷
昨日、上智大学で期末試験を実施した。学生達は時間内に答案を出して教室を出て行った。すると、入れ替わりに知らない男子学生が2名、教室のドアを開け、私に入室の許可を求めた。私は快諾し、彼らと少しだけ会話した。私は一人の学生のアクセントがやや関西風であることに気づいた。
「あなた、関西出身?」
「四国です。香川県」
「香川県のどこ?」
「丸亀です」
それを聞いた途端、私はすぐに讃岐弁に切り替えた。彼と私は高校が異なっていた。したがって正確には私の後輩ではなかったが、とても親しみやすい青年であった。
「東京に来てよかったです。いろいろな人に会えましたから」
その意見には同感である。他県出身の友人を持つことは大切。上智大学だと、世界各国から来ている学生と交流ができる!
天明二年(1782年)創業の店
私は食事を作らない。というと語弊があるが、家で食べないわけではない。言葉を補足するならば、時間をかける食事は作らないということだ。
昨日、頼んでおいた佃煮が届いた。箱を開けると、折ったちらしが入っていた。「創業天明二年 おいしさ届けて 三世紀」と書かれており、さらに次なる説明が続いていた。
「新橋玉木屋は、一七八二年、江戸片側町(現在の新橋)にのれを揚げて以来、三世紀にわたって、伝統の味・日本の味を守り育ててまいりました」
私は1782年に注目した。バンコク遷都の年であり、現ラタナコーシン王朝が始まった年だ。日本では天明の時代であったということを初めて知った。
そこで、天明時代を調べてみると、1782年=天明の大飢饉 1783年=浅間山大噴火 死者2万人 1784年=志賀島金印発見 1786年=田沼意次失脚 1787年=天明の米屋打ちこわし、等々。
高校時代に習った日本史を思い出した。