日本蕎麦店とベトナム人

我が家に泊まった知人御夫妻は昨年から浜松に在る日本蕎麦店を任されて、鋭意、頑張っておられる。8月上旬には私が彼らの家に泊めてもらったばかりである。その時は店の前を車で通っただけなので、店の中の様子はわからなかった。
 しかしながら、アルバイトとしてベトナム人を雇っていることは聞いた。そして、今回、再会した時も、彼らはベトナム人のことを話題にした。
 「宜しくお願いします。がんばります、と丁寧にお辞儀をしながら言われると、とても可愛く思われ、家に招き一緒にご飯を食べたくなります。しかし、辞めて行くのも早くて困っています。店の近くに日本語学校が有り、そこで勉強しているベトナム人を雇っているけど、突然、メールが来て、今、どこ?、と尋ねると、空港でした」
 ご多聞にもれず、蕎麦屋も人手不足に困っているらしい。ベトナム人同士で時給の情報交換をし、少しでも高いところに平気で移って行くという彼らの話を聞きながら、「タイでも同じですよ。アジアはそんなものです」と、私はアジア通ではない彼らをなぐさめた。

母心

昨晩、知人御夫妻が我が家に泊まった。奥さんであるH子さんは双子の姉で、妹のM子さんも一緒に泊めてと頼まれていたので二つ返事でOKを出した。そして、我々4人は午前1時まで(ถึงตี๑)大いに語り合った。M子さんが次なる話をして聞かせてくれた。
 「息子は今年3月、上智大学博士課程を卒業しました。息子は来なくてもいいよと言っていたのですが、どうしても行きたくて、こっそり会場に行きました。すると、息子が総代として答辞を読んだんです! もうびっくり。そして、上智大学新聞を読むと、今年の退職者の中に、吉川先生のお名前を見つけました」
 彼女の話を聞きながら、立派に育った息子の晴れ姿を見て、その日が彼女自身にとっても「母親の卒業式」となったわけである。
 思いがけずも素敵な話を聞きながら、大学の教職から去って早くも半年になる自分を静かにふり返った。

新人講師

昨晩の「タイ語中級 火曜日19:00」のクラスから、新しい講師であるシン講師が初講義をされた。彼を紹介したミカン先生と同じく、目下、東京医科歯科大学に留学中の文科省留学生であるが、医者ではなくて医療機器の研究をしておられるそうだ。医療関係の用語は難解なので、一般的な話題にしていただいたが、いずれにせよ実直なる好青年である。
 授業中、彼の顔をじっと見ていると、私の従兄の息子に非常に似ているように思われた。すかさず親近感がわいてきた。
 「私の顔、タイ人に見えますか?」と彼に尋ねると、生徒の一人が先に反応した。「タイへ行くと、吉川先生みたいな人、いっぱい見かけますよ!」、と。ところが、シン講師はこう答えた。
 「先生という職業のお顔をしておられます」 
 なるほど、彼はなかなかに観察眼が鋭い。

豆の話

昨晩は、「タイ語中級 月曜日18:00」のクラスに、ピカピカ先生の代講として、チェンマイ出身のティウ先生が登板された。「家族全員がチェンマイに住んでおり、私は根っからのチェンマイ人(คนเหนือแท้ๆ คนเชียงใหม่แท้ๆ)ですよ」と強調されておられた。
 日本料理は何でも食べられるとおっしゃられたので、生徒達はすかさず訊いた。「納豆食べられますか?」
 先生の答えはこうであった。「ทานได้ค่ะ แต่ไม่ค่อยชอบ」
 生徒の中にタイ料理の研究家がおられ、チェンマイでも北タイ料理を習ったことがある女性が「チェンマイにも納豆(トア・ナオ)がありますよね」と発言した。
 しかし声調が間違っていたので、豆(ถั่ว)に関する単語を列挙し、発音矯正をすることになった。例:納豆(豆+腐るถั่วเน่า)、大豆(豆+黄色ถั่วเหลือง)、小豆(豆+赤色ถั่วแดง)、もやし(豆+芽が出るถั่วงอก)、豆を売る(売る+豆ขายถั่ว)、等々。

水稲荷神社の秋祭り

 昨日、授業後、高田馬場駅から上野公園行きのバスに乗り江戸川橋まで行く途中、早稲田通りで御神輿をかつぐ行列を見た。沿道沿いに立てられた幟(のぼり)を見ると、水稲荷神社と書いてあった。この神社の存在を私は知らなかったが、ネットで調べると、西早稲田の甘泉園の隣りに在り、日本稲荷古社の随一であると言われていることが分かった。
 行列を見ているうちに、気がはやって、江戸川橋ではなくて、一つ手前の関口一丁目で降りてしまった。そこで、江戸川橋まで神田川沿いに歩きながら、その神田川が井の頭公園から流れて来ていること、そして、松尾芭蕉が関を造るためにしばらくその辺りで住んでいたことなどを書いてある石碑を読んだ。
 水稲荷神社、関口、神田川、そして、江戸川橋….。これらはすべて水に関係している。あらためて、水の神様に感謝!

ミャンマー女性と生け花

 昨日、月に一回だけの生け花クラスが実施された。嬉しいことにタイ女性とミャンマー女性が一名ずつ参加し、久々に東南アジアの風を感じた。
 彼女たちは、全くの初心者であったので、女郎花(おみなえし)と鶏頭を生けた。そして、二人は自分の生けた花を花瓶ごと持ち上げて、相互に写真を撮り合った。そばで見ていた日本人が、「生け花を持ち上げるという発想は日本人には無いわね」と言った。
 ミャンマー女性は机の上に置いた花瓶をくるくる回しながら、いろいろな角度から更に写真を撮った。帰宅後、自分一人で行けるために参考にするためだそうだ。緻密で勉強熱心な彼女の姿に教えられるものが有った。
 一方、生まれて初めて日本伝統の生け花を生けたタイ女性は、美しい笑顔で、華道講師に恭しく合掌(ไหว้)をした。

「駆け引き」というタイ語

今朝、ニュースを聞いていたら、東芝問題は水面下で3グループが駆け引きをしているのでなかなか決着がつかないと報道していた。「駆け引き」というタイ語をスマホで調べてみると、「กลยุทธ์」と書いてあった。ああ、やはりこの単語かと思ったが、問題は、発音表記だ。「klyuthth」と書き、最後の「h文字」の上に、「ノ」のような記号がつけられてあった。この書き方は、タイ文字を自動的にアルファベット化しただけであり、どのように発音していいのか、全くもってわからない。
 スマホのタイ語の発音表記に関して疑問に思うことが多い。私の場合はただ興味本位にチェックしているだけであって、スマホでタイ語を勉強しているわけではない。しかし、タイ語を習う人には混乱を招く気がする。
 กลยุทธ์ は、「kon-la-yut ゴンラユット」と発音する。「กล kon」は策略、計略という意味で、「ยุทธ์ ユット」は戦闘、戦争という意味である。กลยุทธ์が跋扈している世界情勢下にある昨今、心おだやかではない日々が続く….。

タイ語の合成動詞

タイ語は原則として一音節である。多音節の単語はサンスクリットやパーリ語からの借用語からと思ってよろしい。今日は一つの動詞の意味は知っているが、それが動詞+動詞の合成語になると、さらに発展して独立した意味になってしまう動詞をいくつか列挙したい。
 ① หา(探す) หากิน(探す+食べる=稼ぐ)
 ② ติด(くっつける) ติดต่อ(くっつける+つなぐ=連絡を取る)
 ③ เชื่อ(信じる) เชื่อฟัง(信じる+聴く=素直な態度を示す)
 ④ สั่ง(命令する) สั่งสอน(命令する+教える=教えさとす)
 ⑤ ซัก(洗濯する) ซักถาม(洗濯する+尋ねる=問いただす)
⑥ เรียก(呼ぶ) เรียกร้อง(呼ぶ+叫ぶ=要求する)
 他にも、4つの動詞をつなげて、ทำ(する)+ มา(来る)+ หา(探す)+ กิน(食べる)=生計を立てる、という新たなる表現が生まれる場合がある。たくさんの文章を読んで覚えていくしかないが、努力を重ねれば、豊かな表現ができるようになる。

秋田銘菓の「しとぎ豆がき」

 昨日、一ヶ月ぶりに編物教室へ行くと、先生から「秋田銘菓 しとぎ豆がき」というお菓子を頂戴した。先生の故郷は秋田。お盆に郷里へ帰られた時に、生徒達に買って来られたというわけである。
 私は、「しとぎ」という言葉が気になって、スマホで調べると、「米の粉や糯米(もちごめ)でつくった長い卵型の餅で、神様に備える」と説明してあった。「しとぎ」を表わす漢字は、「次」の下部分に「米」を書くそうだが、なぜか私のPCのソフトにはその漢字が出て来ない。
 いずれにせよ、米や、米文化にまつわる話は古代からあるものの、読書をして知識を増やさない限り、だんだんわからなくなっていく。テレビの宣伝に出てくる「さとうの切り餅」だけが頭に残るようでは、稲の神様に申し訳ない。

停電 ไฟดับ

昨日の朝、「タイ語中級 火曜日10:30」の授業をするために元気よく家を出た。ところが、目白駅に到着すると、改札の前に人がいっぱい。山手線が止まっていることはすぐに想像がついたが、原因(สาเหตุ)が停電(ไฟดับ)であり、いつ電車が動くかわからないというアナウンスを聞いたので、急遽、教室まで歩くことにした。授業に遅れること8分。生徒さんに向かって謝るとともに、停電というタイ語を教えた。
 「停電はไฟดับ ファイ・ダップです。もしも語順を反対にして、ดับไฟ ダップ・ファイと言うと、それは消灯になります」
 タイ語は語順が反対になると、当然、異なる意味になるから気をつけよう。
 ①ไปส่ง(送って行く) ส่งไป(~へ送る)、 ②ซื้อให้(買ってあげる) ให้ซื้อ(買わせる)、 ③เครื่องบินตก(飛行機が落ちた)ตกเครื่องบิน(飛行機に間に合わなかった)、 ④ได้รับ(受け取った) รับได้(受け取ることができる)、等々。