謹賀新年

明けましておめでとうございます。本年も泰日文化倶楽部で楽しくタイ語、ベトナム語、フランス語、そして、生け花を学びましょう!
 新年に際して、かつてタイから買って来ておいた新年を寿ぐカードを手許に置いてみた。橙のように見える大きな蜜柑が5個、鮮やかなオレンジ色を呈している写真である。そのうちの4個に、一つ一つタイ語の単語が書かれている。1個目にはมั่ง(多くを所有する)、2個目にはมี(持つ)、3個目にはศรี(吉祥)、4個目にはสุข(幸せ)。これら4つの単語をつなげると、มั่งมีศรีสุข となり、その意味するところは、「分限者」という四文字熟語となる。
 ネットで調べると、「分限者の意味がよくわからないので教えてください」ということが書かれており、その回答として、「分を弁えている金持ちのことです」と単純明快に書かれてあった。なるほど、ただの成金では品が無いというわけだ。
 では、真ん中に置かれている5個目の蜜柑に注目しよう。葉っぱが2葉、V字サインのようにくっついてはいるものの、タイ語は書かれていない。もし、仮に書くとするならば、皆さんは何の単語を選ぶであろうか。やはり、ภาษา(言語)であろう。
 いつも言っていることだが、言語の勉強は楽しい。脳が活性化される。耳も目も口もすべてが刺激を受ける。今年も一年を通して、諸外国語にアタック!

同行二人

一年半、郷里へ帰る時間が取れなかった。さすがに気になってきた。そこで、昨日、日帰りで先祖の墓参りと実家の草取りに行って来た。枯れ草の下に新しい草が生え出していて、もうすでに春の兆しが垣間見えた。
 半世紀を超えて、営々と続けている喫茶店に寄った。コーヒーを淹れてくれたのは、いつものマダムではなくて、バレエを教えている娘さんであった。「どうですか、教室のほうは?」と尋ねてみると、「少子化ですからね….」と、答えた。帰省するたびに、人が街から消えている。私の家の近くに有った整体所も閉鎖していた。高速道路に近い町へ引っ越したと貼り紙に書いてあった。昔は金毘羅参りで賑わった港町。だが、車社会の到来以降、完全に死んだ。
 墓参りのあと、四国八十八箇所の第78番札所である郷照寺にお参りする。小高い山の上に有るので、瀬戸内海が一望できて気持ちがいい。厄除けのお札をいただき、寺をあとにする。
シーンとした町を歩く。すると、初老の男女の二人連れとすれ違った。お遍路さんの恰好をして、杖をついている。
 「同行二人」とは、「一人のお遍路であっても、お大師様が一緒に歩いていてくれているから」、という意味だそうだが、現実に目にした夫婦連れもなかなかによかった。
 一人でもよし、二人でもよし。ただ、歩き続けること。そして、ちょっと休憩を入れること。それがいいのだ。

年の瀬の新宿

 毎年、年の瀬になると、どうにかこうにか作成した年賀状を持って新宿郵便局へ投函に行くのが私の年中行事になっている。昨日、山手線のホームから階段を降りると、人、人、人。西口改札口と東口改札を結ぶ広い通路はすべて頭、頭、頭。西口改札を出るのも容易ではなかった。
 気のせいであろうか。今年はなんだか若者が多いような感じがした。勤めを終えた若者達が淡々と故郷へと向かっている。年寄りが少なくみえるのは時間帯のせいもあろうが、よくよく考えてみると、自分自身が年をとっているのに、それを忘れていたということだ。いずれにせよ、若者パワーが伝わってきて、都会ならではの光景であった。
 人の波を逆らうようにして地下広場を歩く。すると、泰日文化倶楽部の現役の生徒さんを見つけた! すかさず声をかける。彼は格別、驚いた様子も見せず、普段通りの話し方で私に応じた。二人が立ち話をしている間にも、人の往来は渦巻のごとく続く。
 高速バスの乗り場にも若者がいっぱい。臨時バスが彼らを乗せて地方へと向かう。東京からどんどん若者達が消えていく。私も今日、久しぶりに四国へ向かうことにした。

偶然の一致(co-incidence)

昨日の昼、泰日文化倶楽部のS講師と小さな忘年会を持った。彼はタイ人講師が休んだ時に快く代講してくださるので、私にとっては有難い存在である。来年のぶんまでしっかりとお願いしておいた。彼は、年末のご挨拶ということで、私にワインをプレゼントしてくださった。「僕が日本に帰って来たのは2000年です。その年のワインを選んでみました」と、彼は言葉を添えた。
 帰宅して、テレビをつけたものの、年末だから、案の定、どれもこれも面白くない。仕方なく、旅番組を見ることにした。フランスのボルドー周辺を紹介していたので、フランス語の勉強も兼ねて見た。ワインの産地のサン・テミリオンはとても風雅で、中世の雰囲気をたたえる街であった。
 番組を見終わったあと、S講師に頂いたワインを袋から取り出すと、なんとそのワインは、サン・テミリオン産のものであった。偶然の一致(co-incidence) !
  平凡な毎日を過ごすことは、それ自体、幸せなこと。だが、日常生活の中にこのような偶然の一致が有ると、生きていて面白くなる。来年はいくつ、このような偶然性を楽しめることよ。

雑巾

泰日文化倶楽部が年末年始の休暇に入ってからかれこれ1週間。1月7日の開講日まであと10日もあるので、入門クラスの生徒さんは、おそらくタイ語を忘れてしまうかもしれないと思うと心配だ。1日に少しでもタイ語のテキストを開いて復習をしてほしい。
 最近の私は年賀状作成と掃除に明け暮れている。なるべく雑巾がけもすることにしている。その雑巾だが、よくよく見ると、もうぼろぼろだ。来年に向けて古タオルを縫って雑巾を作っておかなければ。
 ところで、雑巾のことをタイ語では、「パー・キーリウ ผ้าขี้ริ้ว」という。パーは「布」、そして、キーリウの意味は、「ぶざまな、みにくい、ボロボロ」だ。かつて、桐生さんという方がタイ語を習っていた。彼はタイへ赴任して行かれたが、タイ人の耳には「キーリウ」に聞こえるので、彼の名字が誤解されるかと思うと、とても心配であった。
 冨田竹二郎先生の『タイ日辞典』を見ると、次なる表現が有った。「雑巾が金を包んでいる ผ้าชี้ริ้วห่อทอง 」。「身なりは極めて悪いが大金持ちの人」という意味だそうである。

生け花 と 花瓶

12月21日に、「第81回アジア女性のための生け花クラス」が開講された。その際、例年にならい、華道講師から来年度のカレンダーが2種類、プレゼントされた。一つは小原流本部作成のもの、そして、もう一つは横浜支部作成のものであった。日本全国に支部はたくさん有るが、毎年、卓上カレンダーを発行しているのは、おそらく横浜支部だけであろう。
 数年前、私は横浜支部の華展を観に行ったことがあるが、会場に入るや否や、満ち溢れる華やかさに圧倒された。これは何から来るものであろう? そして、やがてわかった。花よりも花瓶がすごい。豪華であることは勿論だが、何かが違う。また、考えた。そうだ、歴史だ。歴史の重みにほかならない。横浜支部の幹部級の方達が持っておられる花瓶は、おそらく、先祖代々のものであろう。横浜港で貿易商を営んでおられたに相違ない。最近、デパートで購入したものとは全く趣きが異なる。
 生け花の場合、花が主体であり、花瓶は副。しかし、やはり、器は大切。その器に歴史の息吹が吹き込まれているならば、現在(生け花)と過去(花瓶)が見事に調和して、鑑賞する側に一瞬の緊張を与えてくれる。

エスプリ(esprit) vs マイペンライ

昨晩のNHK番組「フランス語講座」を見ていると、出演者がそれぞれに好きな言葉を挙げるコーナーが有った。フランス女性は「エスプリ(esprit)」と答えた。すると、日本女性が「それは、日本で言うと、粋、ですね」と、応じた。
 辞書で調べると、「エスプリ=精神、知性、才気、霊魂」と出ていた。なんだか分かったような、分からないような….。しかし、とてもお洒落な単語であることよ。
 では、タイ語で好きな単語とは? 各自それぞれに異なるであろう。だが、一般的な単語は「マイペンライ」。この単語は人をジタバタさせなくてよい。あきらめをもたらせてくれる。精神的に深く考えなくて済む。知性なんか深く求めなくてもかまわない。才気なんかもいらない。生き方は自然。人間関係も薄く、軽く。
 エスプリを求めるのも大変だが、真のマイペンライに徹するのもなかなかに難しい。タイへ行って、タイ人に学ぶしかない。

美容師 と 五穀米

昨日、教室の掃除をした後、美容院へ行った。美容師が2名もお休みだったので、順番が回ってくるまで読書をして待つことにした。やっとイスに座ると、左隣りでマロン色に髪を染めている女性が担当している美容師に向かって盛んに喋り続けた。「ああ、昔はよく儲けさせてもらったわ」 彼女はおそらく自営業者なのであろう。帰る時に、美容師に向かって、「あなた、五穀米を炊いて来たから、食べてよ」と言って手渡していた。
 そして、私が帰ろうとすると、美容師が、「五穀米、たくさんもらったから、おすそ分けしてもいいですか?」と、言った。私はその美容院へ11年通っているが、食べ物をいただいたことはかつて無い。「嬉しいです。いただきます!」と、すかさず答えた。
 そのあと、美容師と立ち話をした。彼女の人生が少しばかり分かった。1年半前に御主人を亡くされ、今は高校生の娘さん一人と暮らしているが、クリスマス・イブは、娘がパーティーに出かけたので、一人ぼっちだから、御飯をたくさん頂いても食べきれないというわけであった。
 「娘さんも美容師になりますか?」と尋ねると、「保育士になりたいと言ってます。手に技術を持っていると強いですから」と、彼女は答えた。それを聞いて、「そうですね。資格があると強いです。私には手に技術が無いけれど、口にはあります」と、応じた。

電話 vs LINE

アメリカの大学に留学していたY子さんが1年4ヶ月ぶりに、再び、タイ語を勉強し始めたので、彼女に聞いてみた。「アメリカ人と電話で話すことで、電話の英語にも慣れたことでしょうね。きっとスピードのある英語が話せるようになったのではありませんか?」
 すると彼女の口からは意外な返事が戻ってきた。「アメリカでは一度も電話で話していません。すべてLINE でした」
 それを聞いて、なるほど、LINEだったのか、と思った。それが世の中の趨勢であれば致し方ない。電話で話すと相手の様子がよくわかり、生の英語を聞くことができるのに…..。
 タイ人との連絡もLINEが主流になってきている。タイ語の文章がタイ語で書けるようになったという話を生徒達から聞くと、それはすばらしいと素直に思う。だが、LINE一辺倒ではなくて、時には電話で話し、口をパクパク動かし、聴力を高め、次は何をしゃべろうかという考えを巡らすのも大切である。生きた会話には、いろいろな話題が飛び出し、それが思わぬ方向に発展していき、おのずから語彙力が問われるからだ。

ゆめ花 と 「和」

「市原ぞうの国」で大活躍している小象のゆめ花(6歳)ちゃんが、21日、来園者の前で「和」という漢字を書いたというニュースを読んだ。来園者達から選ばれた今年の漢字が「和」であったからだ。「平和」とか、「和み」という願いによって選ばれたそうだが、私の場合、「和」は「昭和」の「和」が一番最初に頭に浮かぶ。しかし、昭和は遠くになりけり….。
 いずれにせよ、興味深いのは、ノギ偏の漢字だ。ノギ編は稲をイメージされているそうだから、和という漢字は「米が口に入る」ということかも?。みんなが十分に、そして、満足できる食事をすることができれば、心が落ち着き、優しくなれる。
 ネットで調べると、ノギ編には収穫に関する漢字が多いそうだ。例:秋、穂、稲、等々。そして、それが転じて、お金に関する漢字が生まれたとのこと。例:稼ぐ、税、租、科、等々。
 年末・年始の期間、タイ語の勉強はもちろんだが、漢字の勉強も面白そうだ。暖かい部屋の中で漢字に挑戦し、タイ語とは異なる刺激を脳に与えてみようではないか。