佐渡の自然

6月5日午前8時、ホテルにガイドさんが迎えに来てくださった。ガイドさんは今度の旅の企画者である私の親友の中学時代の同級生であった。したがって、同い年。12時までの4時間、効率良く、佐渡の自然を案内していただき、我々一同、大満足。
 彼は「カンゾウの花で有名な大野亀へ行きましょう」と言って、佐渡の北端まで連れて行ってくださった。「途中の二つ亀から海岸線を歩くといいですよ」と言われ、その通りにすると、佐渡の海がより身近に感じられた。ひざに自信がない私は、彼の腕を借りて、階段を下りた。
 「佐渡に住まわれて40年だそうですが、不便な点は何ですか?」と尋ねると、「不便なことがいいんですよ」と、一蹴された。野暮な質問をした自分を恥じた。
 最後に、彼は朱鷺が見えるかもしれない丘へと車を走らせた。途中の田んぼにそれらしき鳥が見えた。丘に山下清画伯の石碑が有った。その地は山下画伯の母親がかつて住んでいたところ。放浪の末、母の懐に帰るが如く、画伯はそこを終焉の地と定めたそうだ。

伝統の継承

冊子の解説に依ると、「1604年、佐渡奉行となった大久保長安が佐渡に能楽師らを同道したことから佐渡における能楽が始まりました」と書いてある。そして、冊子の最後に、「<舞い倒す>という言葉があるが、それは、能楽が高じて身上を潰すというものです。それは修行を積んで正統な宝生の能を舞おうとする佐渡宝生の本質を内蔵する言葉であると言えます」と、結んでいた。
 私が観た「熊野」のシテは、30年近く修行したのちに初舞台を迎えたという方であった。能に詳しい友人の話によると、シテがすべての経費を支払わなければならないとのこと。ワキの方への謝礼や、謡、鼓の方々への謝礼、そして、何よりも家元から借りてくる能装束の衣装代がものすごく高いそうである。まさしく、<舞い倒す>の世界である。
 いずれにせよ、能楽愛好者によって、佐渡の能はこれからもずっとずっと継承されていく。500年後もきっと存続していることであろう。

天領佐渡両津薪能

6月4日の夜、佐渡市椎崎・諏訪神社能舞台に於いて、「熊野」が演じられた。熊野と書いて、「ゆや」と読むそうだ。
 午後7時半、二人の巫女が松明をもって舞台正面へと向かう。若い男二人が松明を受け取り、左右対称に置かれた薪に火をつける。パチパチと火の粉が飛び、やがて、煙のにおいが舞台を覆い尽くす。
 熊野とは、平家の宗盛の愛妾。その彼女が静岡の磐田にいる母の見舞いに行きたいと宗盛に暇乞いを申し出るが、彼は許さない。清水寺の花見の宴で舞いを舞えと命じる。泣く泣く舞っていると、にわか雨が降って桜の花びらを散らした。不吉な予感に、熊野はいてもたってもいられない。彼女の心痛に同情した宗盛はついに熊野の帰郷を許した。
 以上は、会場でもらった冊子からの抜粋である。一時間半の舞台は実に深淵そのもの。別世界に置かれた一夜であった。

佐渡へ

トンネルを抜けると、水ぬるむ田園が広がっていた。信濃平野はいつ見ても豊かだ。12時35分、佐渡汽船に乗り込む。久しぶりに聞くドラの合図。一年ぶりに再会した大学時代の寮友は、すかさず弁当に手が。70歳になろうとするのに食欲だけは昔のまま。喋っていると、2時間半の船旅はものすごく短く感じられた。
 宿は両津港から車で5分もかからなかった。小高い丘にあったので、佐渡の海や加茂湖が見渡せた。
 我々の旅の目的は、6月4日の夜、諏訪神社で行われる薪能を鑑賞することにあった。5人の仲間の一人が能に精通しており、彼女の誘いに他の者達が賛同したわけだ。
 能を鑑賞する前に、彼女から能に関する講義があるのかと思いきや、彼女は次のように言って、つっぱねた。
 「能は理解しようとしてはいけません。感じるものです」

カンボジアで製造した靴

明日4日から6日まで、佐渡へ薪能を観に行く。新潟在住の友人が企画してくれたので、大学時代の寮友数人が一緒に行くことになった。新潟の友人は史学科を卒業し、新潟で歴史の教師をしていたので、年代にはめっぽう強い。我々のこれまでになされた小旅行の履歴は、すべて彼女の頭の中に残っている。
 ところで、旅行に際して、新しい靴を買った。と言っても、数年来、履き慣れているメーカーの靴である。①ひざ関節を守る理想的な歩行を実現。②ひざへの衝撃を分散吸収。 ③ひざを安定させるももの内側の筋肉を有効活用。これらがこの靴の特徴である。普段は1万7千円位する靴だが、在庫セールということで、1万円位であった。
 ところが、これまで一度も生産国に関心を持たないで履いてきたが、ふとよく見ると、カンボジアで生産したものであることがわかった。そこで考えた。カンボジアでは相当に安く作らせているのではないか、と。カンボジア人のへ労賃は、一体、いくらなのであろうか?

本気

私は1983年から警察通訳をやっている。33年間、元気で頑張って来られたのはこの仕事が好きだからだ。私の名前は、敬子。<敬>の漢字の下に、<言>を付ければ、<警>になるから、何か御縁があると思って、通訳要請が入れば、いそいそと出かけて行く。
 守秘義務があるから事件のことは一切書けないが、先日、某署で感心する光景に遭遇した。それは、午後6時半頃、仕事が終わったのでエレベーターを待っていると、小学校4年生位の少年達が5人、めそめそしながらエレベーターから降りて来た。警察官が本気で叱りつけると、そのうちの一人は、本気になって泣き出した。久しく見たことがない光景であった。
 本気になって叱る警察官と本気になって泣く子供。本気になるということはエネルギーを消耗するが、人間対人間の勝負としてはすばらしい。少年達は将来に及んでこの日のことを覚えており、もう決して悪いことはしないであろう。

最近の泰日文化倶楽部

今日から6月。入梅間近とあって、紫陽花の花が美しく咲き始めている。プライベートレッスンを受講している香港からの女子大生に紫陽花の写真をラインで送ってあげると、「これは何という花ですか?」とたずねてきた。「アジサイと言います。梅雨が近いことを教えてくれる花です」と返信すると、「知らなかったです。日本人はそのようにお花をとらえるのですね」、と、感心しきり。
 ところで、最近の泰日文化倶楽部の状況であるが、実におだやかなうちに、皆さん、淡々と勉強しておられる。5月に復学者が2名有った。一度おやめになっても、状況がととのえば、またタイ語を始めるという姿勢は好ましい。過去に勉強したことが次第に思い出され、新たなる心境で勉強に拍車をかける。これこそが飛躍への第一歩なのだ。
 勉強したことはすべて脳裏に残っている。縦、横、上、下、右回り、左回り、斜め、いろいろな角度から勉強し直すと、タイ語は面白い。発見、あるいは、再発見こそが、自分自身への刺激になる。

親子三代の英語教師

昨日、大学時代の友人を偲ぶ会がホテル・ニューオータニで有った。彼女が天国へ召されて一年。ゆかりのある方々に最愛の妻を偲んでほしいという御主人の意向が十分にくみとれるすばらしい会であった。息子さんが中国人女性と結婚していて上海に住んでおられるため、お嫁さんのご両親も参列しておられた。
 私の隣りに座った方はアメリカ人であった。彼と亡き友人との出会いを尋ねてみると、英会話学校で彼女に英語を2年半、教えたことがあるそうだ。しかし、我が友人は東京女子大学英文科を卒業した才媛である。何故、街の英会話学校へ行ったのであろうか? 
 アメリカ人は言った。「彼女の英語は完璧でした。話すのも、書くのもすべてすばらしかったです」
 それを聞いて、私は友人の努力する精神に感心した。教えられるものが大いに有った。
 アメリカ人は続けた。「彼女のあと、お嬢さんが私から英語を習いました。現在は、さらにその娘さん、すなわち、中学生のお孫さんが生徒になっています」

「タイ語初級 土曜日11:00」のクラス

「タイ語初級 土曜日11:00」のクラスは約1年継続しているクラスである。現在の生徒は男性2名、女性2名で、バランスがとれた形をなしており、いつ見に行っても和気あいあいとした空気が流れている。
 私はそのクラスに最後の10分ばかりお邪魔して、生徒達の単語チェックをすることにしている。これまでに習って来た単語が果たしてすらすらと出てくるかを知りたいからである。
 昨日も、将来、事故、博物館、辞書、といったサンスクリット、パーリ語系統の単語を言わせたが、いかんせん、反応が遅い。覚えてはいるが、すぐに出てこない。
 すぐに出て来るようにするためには、一人でたくさん本を読み、単語を自分のものにしてしまうという努力と根性が要求される。市販されている単語集をぱらぱらめくるのでは、いつまで経っても単語が身につかない。「タイ語」、イコール、「体語」と自分に言い聞かせ、とにかく瞬発力でもって、タイ語の単語を吐き出すようにしよう。

ひざ と ひじ

今年1月から新しく講師に加わったキック先生は、ものすごく小柄なタイ人女性だ。体重43キロというが、私の目には40キロにしか見えない。そのキック先生が、授業後、一緒に帰る時、私の腕にかならず手をまわし、私がころばないようにガードをしてくれる。
 「先生、ひじは大丈夫ですか?」
 「ひじ? ああ、ひざのことね。大丈夫じゃないのよ」
 彼女はひざ(เข่า カオ 低声)とひじ(ศอก ソーク 低声)を混同して覚えているようなので、すかさず教えてあげた。
 「ひじではなくて、ひざね」
 いずれにせよ、一人っ子であるにもかかわらず、彼女の気遣いは徹底している。ということは、タイの教育がいいのかもしれない。「年寄りには手を差しのべる」という教えが……。