サマータイムの有効利用

ここ数日、早朝から家を出ている。たくさんの人がすでに通勤しているのを知り、私も頑張らなくてはと刺激を受けた。
 先日、新聞を読んでいると、「2020年の東京オリンピック時は、サマータイムを!」をという記事が目に止まった。これまでサマータイムを採用してきた会社はあるが、早く出社しても終業時間に仕事が残っていると、ついつい残業してしまい、結局、働きすぎになるというので、サマータイムを廃止する会社が多いそうだ。
 2時間早く家を出ると、通勤地獄からも逃れられる。空気が違う。通勤中、思考力も上がる。そして、勉強も出来る。暗記力も冴える。夏はもうすぐ終わるが、気持ちはいつもサマータイムで過ごすようにすると、時間と体力を有効利用することができて、とてもいい。

集中力抜群の煎餅屋さん

昨日から教室を再開したので張り切って行こうとしたのだが、なんと腕時計の秒針が止まったままであることに気がついた。そこで、いつも電池交換をしてくれるところへ行った。今どき、昔風の時計屋ははやらないので、その店は煎餅屋も兼業している。
 行ってみると、時計屋には張り紙がしてあった。「目下、外出中」 煎餅を焼いているところを見ると、3人でひたすら煎餅をころがしながら、焼け焦げをつけている。時計屋は昼食に出たのであろうと思い、編物教室へ先に行き、3時間後に戻ってみると、「目下、外出中」のままであった、
 ついに、私は煎餅屋の女性を店頭に呼び出して、「いつ頃、戻って来られますか?」と尋ねると、「今、煎餅を焼いております。煎餅を焼いている時は、電池交換はしません。時計なら、お預かりしておきます」と答えた。
 奥を見ると、確かに時計屋が煎餅を焼いていた。煎餅の焼き加減を一律にするために、他のことは一切せず、集中力が肝要であることを初めて知った。

今日から授業再開!

2週間の夏休みが終わりました。今日から授業再開です。
 2016年1月1日から数えて、今日は237日目。あと129日、残っています。要するに三分の二が終わり、三分の一が残っているということです。
 さて、その三分の一をどのように使うか、どのように頑張るか、そして、どの程度、学習意欲を向上させて行くか。ひとえに本人自身の自覚にかかっています。
 タイ語の基本をおさえながら、応用にも挑み、あと4ヶ月でタイ語の学力を納得の行くレベルにまで上げてください。

坊やと公衆電話

一昨日(เมื่อวานซืนนี้)、目白駅改札口にある公衆電話(โทรศัพท์สาธารณะ)の横で人を待っていると、5歳位の坊やを連れたパパとママが私のすぐそばを通った。「ちょっと買い物して来るから」と言って、パパがさっさと行ってしまった。そこでママと坊やは歩くのをやめ、公衆電話の前に立ち、パパを待つことにした。
 すると、坊やが背伸びをしながら公衆電話の受話器(หูโทรศัพท์)をどうにかこうにか取り外し、「もしもし、もしもし」と言い始めた。「受話器が反対よ」とママが注意。私の視線に気づいたママはこう言った。「この子、いつでもこうなんです。電話が大好きなんです」
 最近の子供は幼児の時からスマホで遊んでいる。スマホさえ持たせておけば泣いていた子も黙る。だから従来の電話機にはもはや関心が無いのだと私は思っていた。駅で見た坊やにとって公衆電話は珍しいおもちゃ(ของเล่น)であった。古い機器で遊ぶ子供にもっともっと会いたい。

利休百首

昨日、お茶の稽古が有った。かねてよりミカン先生が見学したいと言っておられたので御招待した。ふくらはぎを真っ赤にしながらも、3時間、お茶の世界にひたっている先生。関心の度合いは本物と見た。
 ところで、茶道には小さな扇子を使う。長さは約14センチ。昨日、私が茶道講師に授業料をお支払いする時に使用した扇子をご覧になって、「あら、利休百首が書かれていますね」とおっしゃられた。私はこれまで何が書かれているのか無頓着であったが、その扇子は40年前に習っていた時の茶道講師から頂いたものであった。
 利休百首の中から、現在の講師が一首をそらんじた。
「けいことは一よりならい十を知り十よりかえるもとのその一」
 もう十分に理解したと思っても、また最初に戻って、勉強のやり直しをする必要性を説いている。

言葉と度胸

リオ五輪はそろそろ終わりに近づいた。どのチャンネルを回しても中継や録画をやっているので、8月はまさしくオリンピックで明け暮れた感がする。
 メダルを取った日本の選手達が繰り返しテレビに登場するたびに思うことがある。それは、競技技術もさることながら、彼らが繰り返し海外遠征することで、外国の空気に触れ、言葉の面でももはや物怖じしていないということだ。
 錦織選手が早くからアメリカ留学していたことは知っていたが、卓球の水谷選手が14歳でドイツへ留学していたことは知らなかった。中国へ留学するならまだわかるが、ヨーロッパへとは! やはりアジアに閉じこもっているだけではだめだ。欧米人の強靭な論理と思考を肌で感じる必要がある。言葉にコンプレックスが無くなれば、度胸もおのずから身につく。

感情移入

昨日の朝、教室の掃除のために高田馬場へ行った。そして、午後は早稲田松竹映画館へ。久しぶりの映画だ。
 1本目は、『放浪の画家ピロスマニ』。グルジアの映画は初めてであった。1969年の作品。1969年という年は、私が社会人になった年だ。
 2本目は、『FOUJITA』。小栗康平監督が10年ぶりにメガホンをとった映画。画家の藤田嗣治のパリ時代と第二次世界大戦中の日本に於ける生き様の二部仕立てになっていた。
 藤田(フジタ)はオダギリジョーが演じた。演技力豊かなプロのフランス人達のなかに入って、フランス語で演じるのは大変であったろう。最後のクレジットを見ると、彼のそばには日本人の通訳がついていたことがわかった。だが、感情移入となると、それは俳優そのものの実力である。外国語で、感情をきめこまやかに表現するのは難しい。タイ語の勉強でも、これからは感情移入に力点をおいてみることにしようか。

仏像の手

私がタイ大使館(Royal Thai Embassy)に勤務していた時の話である。上司が某大使館の外交官の家で開催されたパーティーから帰って来られた翌日、彼はものすごい不快感を表わした。その理由は、招かれて行った邸宅に仏像の手がアートとして飾られていたからである。タイ人にとって、仏像の体をばらばらにして、その一部を装飾品として飾ってはいけないことをその時、私は知った。欧米人は骨董扱いにして、オリエンタリズムよろしく、部屋に飾るのが好きなようだが……。
 昨日、知人がラインで写真を送って来た。彼女の友人が作った庭の写真であった。東南アジアから送らせた仏像の頭が見えた。私から見ると、その仏像の頭の高さが地面に近すぎだ。低すぎると、歩いている人間の頭のほうがどうしても高くなる。もしもタイ人がそれを見たならば、果たしてどう思うであろうか? 
 40年前にスコータイへ行った時、仏像がひな壇の如く並んでいた。すぐ横に石段が有ったので、上って行こうとすると、タイ人からきつく言われた。「女性は上がってはいけない」、と。タイ人は自分よりも目上の人の前を通る時は、必ず腰をかがめる。とても美しい習慣だ。

ご主人は?

 昨晩、在日半年のタイ女性と一緒に食事をした。
 「先生、ご主人は?」と、彼女が私に尋ねた。一瞬、びっくりしたが、私は落ち着いて答えた。
 「独身です。だから、いません」
 すると、今度は彼女がびっくりした。「ちがいます。先生はどこから来たの?」
 「ああ、それなら、ご出身は?ですね」、と、すかさず発音を直してあげた。
 タイ人にとって、<ご主人(ごしゅじん)>と<ご出身(ごしゅっしん)>は、発音しにくいことがわかった。
 我々日本人も、発音ができないタイ語が多い。จุ(ジュ cu 収容する)と จุด(ジュット cut 点)の聞き分けができず、教室で何回も試みても、生徒さんはダメであった。

アフターサービス

泰日文化倶楽部の夏休みは今日から後半に入った。前半では、個人レッスン受講中の生徒さんが、講師のミカン先生と私をご自宅に招いてくださり、素敵な時間を過ごすことができた。2016年夏のとてもいい思い出になった。後半では、「タイ語中級 土曜日14;15」のクラスのパーティーが予定されている。生徒達のタイのみやげ話が今から楽しみだ。
 ここ数日、特に用事が無い。のんびりしている。これでいいのであろうか? と、思っているところに、20年前の生徒から電話が入った。「タイ語を添削してください」という依頼であった。私はすかさず承諾した。
 昨晩、添削した原稿をFAX送信すると、感謝のメッセージが来た。私は生徒の依頼であれば、いくらでも協力することにしている。20年前の生徒であろうが、30年前の生徒であろうが、関係ない。アフターサービスは大切なこと。そう自分に言い聞かせている。