哀悼のタイ王国(12)

 地方行幸をされる国王は森の中を先頭に立って歩かれる。一歩の幅が広い。大地を踏みしめる足に力が入っている。国王の頭の中には、農民の「生活の向上 ให้มีความชีวิตดีขึ้น」のことでいっぱいだ。農民が「苦しいです(ลำบาก)」と言うと、国王は、「どのくらい苦しいのか? ลำบากเท่าไหร่」とすぐ訊いてくださったそうだ。そして、「自分が苦しくない時は他の人を助けるように」とつけ加えられた。健康がすぐれない村人を見ると、「水がすべての源だから、清潔な水を確保するように」と助言。
 国王と水、それは切っても切れない話である。国王は、農民に対して、貯水(เก็บน้ำ)と灌漑(ระบายน้ำ)を力説し、ダム建設(สร้างเขื่อน)も果たされた。池(สระน้ำ)からの放流(ปล่อยน้ำ)も教えられた。国王はいつも、「やれる(ทำได้」とおっしゃられて農民を勇気づけられもなさった。国王の声(น้ำเสียง)は力強かった。注意すべき時は本当に注意をしておられた。
 国王の御歳を数えるのは、一般の「年 ปี」ではなくて、「雨 พรรษา」である。何回、雨季を経たかという数え方をするが、これを見ても国王と水は深い縁が有る。国王即位時、「灌頂 อภิเษก」という儀式が執り行われるが、これは頭の上に水をかける儀式である。

哀悼のタイ王国(11)

 プミポン国王を追悼するテレビ番組のタイトルは、「พ่อของแผ่นดิน」。แผ่นดินには、大地、国土、国家、王朝、御代、といった意味があるが、タイ人にとっては、「国の父」と訳すのが一番親しみやすく感じられることであろう。
 リケー芝居の演者に続いて登場したのは、オリンピックで金メダルを獲得したボクシング選手であった。タイ・ボクシングは国技であるから、国王からお褒めの言葉をいただくのは当然のことだ。そして、重量上げの女子選手も、自分が経営するジムで哀惜の気持ちを表明した。
 音楽関係者達は国王の御教えを述べた。「คนดี สงบ คิดดี」、そして、「รักกัน สามัคคีกัน」
 仮面劇の仮面を作っている方達も、工房で思い出話を語った。
 しかし、何よりも多く取り上げられたのは地方行幸をなさる国王の御姿であった。

哀悼のタイ王国(10)

バンコク第2日目(10月20日)、朝5時からテレビをつけた。盲目の女性が美しい声で歌っている。4歳で失明した彼女は、現在、ランシット大学生。国王が作曲された歌をこれからもずっと歌い続け、若者に聞いてもらい、後世に永遠に残して行きたいと語った。
 画面は変わって、伝統芸能であるリケー(ลิเก)芝居の役者がインタビューに応じていた。国王の庇護を受けたことをとても感謝していた。ラーマ5世時代にマラヤ(=マレーシア)から入って来たこの大衆演劇は、今から50年前までは街中にリケー小屋が有り、人々は寸劇を見ながら爆笑していたものだ。約40年前、私はそのリケー芝居を見たいと思い、バンコク在住の若いタイ人に「どこへ行けばいいですか?」と尋ねたことがあるが、「もう有りません」と、すかさず言われた。
 だが、テレビに押されて街中から消滅したリケー芝居の役者を、国王がずっと激励し続けて来られていたことを知り、国王の伝統芸能に対する恩寵は慈悲そのものであると感じ入った。

哀悼のタイ王国(9)

2016年10月19日の夜、プミポン国王の初七日の儀式が王宮から中継された。荘厳なる内部、そして、国王の御棺が安置された祭壇は黄金で燦然としていた。タイ国民はテレビ画面を通してではなくて、まるで宮殿のきざはしに我が身を置いているかの如き思いをしたのではなかろうか。
 王族の方々、王室関係者、そして、高位高官の方達が先に席に着いておられた。最後に、皇太子様が黄色いロールスロイスにお乗りになって王宮に到着された。後続の従者達の車は赤のベンツであった。国王をお守りする近習(มหาดเล็ก)の制服の色が赤だから、それにならったものかもしれない。
 阿毘達磨経(พระสูตรอภิธรรม)が僧侶達によって唱えられた。この読経は毎晩、必ず斉唱されている。心安らかなる響き….。いつまでも聞いていたい有り難き読経である。

哀悼のタイ王国(8)

新聞を買った後、パパイヤ(มะละกอ)とパイナップル(สับปะรด)を買って部屋に閉じこもった。テレビを見るためである。3チャンネル(ช่อง3)をつけると、キャスターもレポーターも皆、黒ずくめ。女性キャスターの場合、いずれも皆、襟が中国服のたて襟をしており、スカートも足首まで。すらりとしたスタイルのいい女性達がますますすっきり見えた。
 国王とゆかりが有った方達が次から次に登場したが、彼らも黒服で思い出話を語った。ピアニストは哀惜に耐えられないような表情でピアノを弾いた。バイオリニストも然り。ジャズのグループも深い面持ちで演奏した。国王がかつて所属しておられたグループの名前が「H.M.Blues」と言われたそうである。この「H.M.」は誰しもが、”His Majesty”であると想像するであろうが、実は”Hungry Men”の意味だと昔のジャズ仲間が語った。なかなか洒脱なネーミングであることか!

哀悼のタイ王国(7)

 シーロム通りは車が少なかった。スリオン通りに入ると、もっと少なかった。マッサージ店の店先で客待ちをしている人達は皆、黒。客は来そうにもない。まるでタイムスリップしたかのよう…..。
 サイアムスクエアのノボテル・ホテルはロビーを改装中であった。近所のセブンイレブンも改装中であった。午前中に行ったお粥の店も改装中。ということは、商売にならないので、この際、思い切って改装に踏み切ったということなのであろうか。
 チェックイン後、早速、新聞を買いに走った。国王関連の新聞や雑誌がうず高く積まれている。下世話な想像だが、タイ史上に於いて、一番たくさんの部数が売れるのではなかろうか。しかし、お店の人の顔は淡々としていた。笑顔は消えていた。
 私が買った新聞は大き目のビニール袋には入り切らなかった。もう一枚、ビニール袋を追加して数社の新聞を入れてくれた。今回のバンコク訪問の目的の一つは新聞を買い集めることであった。

哀悼のタイ王国(6)

 「ヤーンナワー寺院のマッサージはすばらしいから、ここでやりましょう」とクン・メーから誘われたので、素直に従った。マッサージをする中年女性にまずは国王のお悔やみを言い、彼女の反応を見た。だが、案の定、無口であった。そこで、個人的な話に切り替えた。
 「何県出身なの?」
 「サコンナコンです。サコンナコンの山の頂上に、国王がお泊りになられる御殿(ตำหนัก)が有ります。国王は毎年のようにサコンナコンにいらしてくださったんですよ」
 彼女がこれだけのことを喋ってくれただけで、私は満足した。国王がイサーン地方へ繁々と行幸あそばされていたことが、庶民の口を通して如実にわかったからだ。
 マッサージの後、タクシーでシーロムへ行き、こじんまりとした食堂で、クン・メーのお勧めに従い、カエル(กบ)を食べた。カエルを食べるのは初めて。「国王が蘇る(よみがえる)」ことを願う気持ちが私には強くあった。

哀悼のタイ王国(5)

洋裁店ではわずかに15分しかいなかった。いつもなら1時間以上も談笑するのに、今回は皆、忙しそうであった。唯一、嬉しかったのは体調をくずしていたオーナー女性が快復していたことだ。隣接する息子のイタリア料理店が倍の面積になり、それはそれは繁盛していることがよくわかった。飾ってある孫の写真を指差しながら、おばあちゃんの顔をほころばせていた。
 洋裁店を出たあと、クン・メーがヤーンナワー寺院へ行こうと言った。いつもはサパーンタクシン駅のホームから写真を撮るだけしかしていなかったので、寺院を見物するのは初めて。寺院の中からチャオプラヤー河の船着き場に出て、そこで魚を放った(ปล่อยปลา)。鰻にするか、それとも、鯰にするかと訊かれたので、私は鯰を選んだ。鯰のほうが、どんくさそうであったこと、顔が可愛かったこと、そして、70歳を迎える私には、大きさ的にも鯰のほうがよかった。
 クン・メーの読経をすぐあとから真似しながら5分唱えると、鰻はようやく目をぱちくりした。私の読経を認めてくれたのだ。そして気持ちよくチャオプラヤー河を泳いで行った。

哀悼のタイ王国(4)

乗換え駅であるサイアム駅は予測していた通り、黒服のタイ人でごった返していた。私の降車駅はサパーンタクシン。そこはいつもの賑わいが感じられほっとした。だがよく見ると、道路上で売っているものは、黒いTシャツや黒い髪飾り。
 クン・メーがチャルンクルン通りにあるおいしいお粥の店に連れて行ってくださった。ところが、閉まっていた。店内改装するとの張り紙が有った。
 隣りの店でセンレックを食べながら時間をつぶし、9時きっかりに、シャングリラ・ホテル近くにある行きつけの洋裁店へ行った。いつもなら、「アジャーン!」と言って、ものすごく歓迎してくれるのに、今回は様子が違った。
 「日本から持って来た生地で、2着、ジャケットを作ってください」と言うと、「注文を受け付けることは無理。なにしろ、一年先までオーダーが入っているから」と、店の人は強気も強気。上得意である私を忘れたのかと、内心、腹が立った。しかし、タイのマダム達が黒い服をたくさんオーダーしていることを知り、事情が事情だけに、なるほどなあと思った。だが、私は引き下がらなかった。そして、2着、ちゃんと作らせることに成功した。

哀悼のタイ王国(3)

10月19日午前6時15分、出迎えに来て下さったピカピカ先生のご両親と合流。駐車場へ行き、スワンナプーム空港を出たのが6時30分。車はオンヌット方面を目指して走り出した。郊外にある小さなホテルのフェンスにまでも白黒の太い布が右から左へと敷地いっぱいにたれかけられているのを見て、いつものタイではないことを感じ取った。
 車はオンヌットからスクムビット通りに入った。「どこへ行くんですか?」と尋ねると、「ホテルまで」とクン・ポーは答えた。「あのー、チェックインは午後2時なんですけど。それではチャルンクルン通りまで連れて行ってくださいませんか? 洋裁店へ行きたいので」と、私。
 しかし、クン・ポーは会社へ行かなければならないので、それは無理とのこと。そこで、クン・メーと私はトンローで降車して、BTSでサパーンタクシンまで行くことにした。午前7時20分、トンロー駅からBTSに乗り込むと、すでに超満員。ほとんどの人が黒い服であった。私のスーツケースは肌色。それを車内に押し込むのが一苦労であった。