神田川日記(13)

私は毎朝6時半から7時の間に、歌を作った。ただし、かなりこじつけの感があるのは否めない。気をまぎらし、自分を鼓舞するために…..。
あいうえおの歌
頭は空っぽ入れ歯探しといびき うんち メンメン(臭い臭い) 永久にまだらボケおむつとおならで はい、さよおなら
かきくけこの歌
感情まだらで勘定は無理 きのうのこと すでに忘却のかなた 食い気だけはまだまだお盛ん 倦怠感 日増しにつのり これから先の希望無し あら、いと悲し
さしすせその歌
淋しさも感じず 死の怖れも無く すでに彼岸へ向かうのみ 生も活も今は昔 そうなの 心はすでにおだやかなりけり
 姥捨て山軍団の中にいて、なんだか暗いムードになって来た。次からは明るいムードの歌を作ることに切り替えよう。

神田川日記(12)

入院して16日目にギプスカットが有った。リハビリの先生から「ギプスが無くなれば、右足に半分くらいの体重をかけられるようになりますから、かなりラクになりますよ」と言われていたので楽しみに待っていた。だが、医師はすぐにまたギプスを巻いた、踵(かかと)の部分だけを除いて….。
 期待がはずれた途端、後半の入院生活をどのように乗り切ればいいのかと思案した。腰を痛めた老女達にはベッド脇にポータブルトイレが置かれている。24時間、誰かがそのP-トイレを使って用を足すので、臭いと音がとても気になりだした。私がお見舞いをお断りしていた最大の理由は、このP-トイレにあった。
 だが、健康のバロメーターとして、毎朝6時起床とともに看護師が前日の大小便の回数を聞いて回る。したがって、他人の臭いや音を茶化してまぎらわすために、「あいうえおの歌」を作った。

神田川日記(11)

実を言うと、私はラーマ9世の御葬儀の取材に行こうとして、スーツケースには黒色の洋服ばかりを詰め込んでいた。バンコクでは元タイ人講師が私のために誂えたタイ式の喪服が待っていた。予定では10月24日の早朝、スワンナプーム空港に到着して、そのまま王宮前広場から1キロばかり離れたホテルに投宿し、周辺を下見した上で、25日から26日まで王宮前広場近くの片隅でプミポン前国王の御棺に合掌しようと思っていた。だが、タイ行きは骨折であえなく頓挫した。
 だが、その代わりに、元タイ人講師がバンコクからどんどん映像を送って来てくれた。留守を守ってくれているボン先生からもタイのテレビ中継がラインで送られて来た。生徒達からも送っていただいた。おかげで5日間に及んだ御葬儀の様子はしかと目におさめることができた。リハビリの先生がやって来られても、事情を話してリハビリの時間を変更していただき、生中継に見入った。

神田川日記(10)

 夜中におろおろする老女達を見た私はナースコールを押して看護師を呼び、状況説明をした。すると、看護師に一喝された。「ここは大部屋です!」 それ以来、何事が有ろうとも看護師には伝えないことにしようと思った。
 ところが、朝になって、看護師から次のように言われた。「皆さん、腰を痛めているのですから、ベッドを出てむやみやたらに歩いてはいけません。吉川さん、この部屋の皆さんが歩かないように見張っててください」
 かくして、私はこの大部屋の級長を仰せつかることになった。
 入院生活は全く退屈しなかった。リハビリも順調に進んだ。最初、ピックアップ歩行器をあてがわれた時、重心をくずしてしりもちをついた。あわててギプスをはめた右足だけは高々と上げて、意識してかばった。しばらくの間、トイレに行くたびに看護師かヘルパーさんの見守りがあったが、やがて、歩行器から松葉杖へと段階的にうまく使えるようになった。私の体に「こうしてはいられない」という気合のスイッチが入ったのを、リハビリの先生はめざとく見抜いたようである。

神田川日記(9)

入院して10日が過ぎた頃、一人のおばあちゃん(大正14年生まれ 92歳)が息子さんに連れられて自宅へ帰って行かれた。この方は原節子さんのように美しかった。寝たきりでほとんどしゃべらなかったが、息子さんとはスムーズに話すことができたので、さすが親子だなあと感心した。
 そのおばあちゃんのベッドが空いたかと思いきや、すぐにまたしても美しい老女が入院して来られた。この女性の言葉たるや、ものすごく上品であった。実際は89歳なのに、「私は92歳」と言い張ってきかなく、次に話した時には「94歳」と数字がエスカレートしていった。
 最初の夜、彼女は「ここはどこ? 灯りをつけてくださいな」と何度も言った。すると、窓際にいた88歳のおばあちゃんが、「はいはい、つけました」とおろおろしながら応じる。しかし、それは彼女自身のベッドの灯りであった。その会話が夜中の1時過ぎまで続いた。私は二人の老女のうろたえぶりを見て、ベッドの中でくすくす笑ってしまった。

神田川日記(8)

スーパーで白菜の葉っぱに足を乗せて滑って転倒し、背骨を圧迫骨折したおばあちゃんとは一番たくさん話をした。彼女はご自分のことを80歳だと数え年でいつも言っていた。「私ね、新宿の小学校の時、美空ひばりと同級生だったのよ」と昔語りを始めた。なるほど、ひばりさんが生きていれば80歳になるというわけだ。このおばあちゃんにもチャキチャキ娘の時代が有ったはず…..。
 或る日、その彼女のところに長男と次男のお嫁さんが二人そろって、お見舞いに来られた。お花と脳トレの本を持ってだ。
 「こちらの嫁はバンコクに10年住んでいたのよ。タイ語もできるわよ」と言うので、私は長男のお嫁さんに向かってタイ語で話しかけた。日本に本帰国してからもう7年が経過しているというけれど、彼女のヒアリングの力は大変に良かった。彼女は義母に向かって、「タイの方かと思ったわ」と私のことを言った。まさか病室でタイ語で会話するとは! しばしストレス解消になった。

神田川日記(7)

私が入院して3日後に、大きな声で話をするおばあちゃんが入院して来られた。御年を尋ねると、何と101歳! それだけを聞いただけで、おばあちゃんのおしゃべりの声をゆるすことにした。このおばあちゃんに感心したことが二つ有る。一つは、彼女の趣味のこと。80歳から始めた編物はかなりお上手。病院内でも自分で編んだベストを着て、ベッドの上でひ孫さんのために帽子を編んでおられた。
 そして、もう一つ驚いたことは記憶力が抜群であること。関東大震災の時、小学校1年生であったらしく、その時の話を聞かせてくださった。
 最近のお見舞い客は、脳トレ用の本を次から次に持って来ているみたいだが、脳トレをしても、皆さん、さほど効果が無さそうで同じことばかりしゃべる。1916年生まれの101歳のおばあちゃんのほうが手先も器用で、頭もはるかにしっかりしておられた。そして、私よりも先に退院して行かれた。

神田川日記(6)

同じく骨折で入院している方達とおしゃべりすることが有った。バイクで転倒し右足の甲の骨を複雑骨折した男性は、最初、家の近くにある大病院へ行ったそうだが、骨折ごときでは入院させないということで、神田川沿いの病院にやって来られたそうだ。それを聞いた途端、私の病院選択は間違っていなかったと思った。
 私より1歳下の女性は高田馬場駅構内を歩いている時、一緒に歩いていた身内のカバンが向う脛に当たり骨折。転倒しなくても、骨折するんだなあ……。
 古い病院だから談話室が無い。お見舞いに来られる方達はベッド脇で患者と話をする。全部の話が聞こえてしまう。そこで私はお見舞いに来たいという方達にはお断りの返事をした。
 いずれにせよ、朝夕、神田川の流れを見ながら、長い人生を闘い抜いて来た老男老女達の終末期とその悲哀はまさしく「川の如し」であると感じ入った。

神田川日記(5)

回診に来られた若い医師に私は尋ねた。「ひびが入っていたそうですね」
 すると、医師は答えた。「ひび イコール 骨折です」
 それを聞いて、私は観念した。ギプスを巻いた老医師は、治療室でレントゲン画像を見ながら私に言ったのを思い出した。「あなたは以前にも骨折していますね。ほら、ここに古傷が残っていますよ」
 そう言われると、思い当たるふしが有った。50年前に大学でバレーボールの上に乗って転倒したことを。その時は捻挫だと思い、病院へは行かなかった。3ヶ月ほど難儀したが、自力で頑張った。だが、それが良くなかったわけである。なにごともプロにお願いすべきであることを猛省した。

神田川日記(4)

私の隣りのベッドには87歳の女性が寝ていた。タンスを動かそうとして腰を痛めたそうだ。窓際に寝ていた女性はボランティア活動をしている女性であったが、私と入れ替わるようにしてすぐに転院して行かれた。すると、その日のうちに88歳のおばあちゃんが入って来られた。このおばあちゃんの家と私の家は近かった。彼女は高田1丁目、そして、私は高田2丁目。すると、白菜の葉っぱで滑った女性(79歳)が、「あら、私は高田3丁目よ」と言った。それから後、彼女は毎日のように、「高田1丁目、2丁目、3丁目」と連呼するようになった。
 この病院は神田川沿いにある。救急車が次から次にやって来て24時間、にぎやかだ。特に週末の夜中は急性アルコール症状になった若者達が運ばれて来る。だが彼らはすぐに退院して行く。長くいるのは高齢者ばかり。新宿区、豊島区、文京区の方達がお世話になっているようだ。