哀悼のタイ王国(33)

10月22日(土曜日)の夜7時に、元タイ人講師のR先生とお会いする約束が有った。R先生は、現在、タイ花王の取締役をしておられる。泰日文化倶楽部のB先生から、R先生がかつてタイ花王に勤務していた時の上司であったことは、いつも聞かされていた。そして、目下、私のところにホームステイしているタイの女の子をどうしても世話してほしいと、B先生から強力に頼み込んで来たのもR先生であるということなので、今回は是非とも会っておきたいと思った。
 「あのー、7時の予定でしたが、6時に変更してもいいですか?」という電話が5時半にかかってきた。準備万端で待っていた私はすかさず快諾した。タイ人は約束の時間に遅れて来るものだが、さすが日系企業に勤めているだけのことはある。
 そう思いながらロビーに行くと、知らない女性が私に向かって元気よく手を振っている。私が思っていたR先生とは全く別人であった。怪訝な顔をしながら、彼女について近くのタイ料理店へ向かった。私の記憶がおかしい?

哀悼のタイ王国(34)

タイ料理店のテーブルにつくや否や、私はR先生に尋ねてみた。「何年ぶりかしら?」
 「25年ぶりです。バンコクでお会いするのは初めてです」と、R先生。私が想像していたR先生とは以前、バンコクでお会いしているので、やはり別人だ。それにしても、同じ名前! 偶然の一致。
 R先生は、泰日文化倶楽部の講師ではなくて、朝日カルチャーセンターでのアシスタントであった。彼女は二人のお嬢さんを連れて来られた。二人ともサイアム駅近くの音楽教室でバイオリンとフルートを習っているとのこと。前日の夜、家庭でホームコンサートをやったビデオを見せてくださった。曲目は「国王讃歌」。素直な響きに感動を覚えた。

哀悼のタイ王国(32)

王宮前広場における「国王讃歌」の斉唱を聞いた後、午後2時にホテルを出て、頼んでいた洋裁店へ仮縫いに行った。サパンタクシン駅を降りて、バンコク最初の道路であるチャルンクルン通り(ถ.เจริญกรุง)沿いにある屋台を見ながらシャングリラ・ホテル方向へと進む。センターポイントのロビンソン前では黒いTシャツやブラウスがたくさん売られている。髪飾りもほとんどが黒。靴屋も負けじとばかり、店頭に黒い靴を並べている。
仮縫いの洋服はまずまずの出来具合。それでも、いろいろと手直しを頼む。4時間後にはホテルに届けてくれるから、取りに来る必要無し。
再び、サパンタクシン駅へと帰る途中、ドリアンを買った。そして、それをカバンに入れて改札を通過したところ、荷物チェックのガードマンにひっかかった。そこで、改札を出て、公衆電話のところにそのドリアンを置いて、写真を撮った。公衆電話の赤色とドリアンの黄色のコントラストが面白かった。しばし、黒の世界とさよならし、私は黄色いドリアンを2房、ほおばった。恥も外聞も関係なし。

哀悼のタイ王国(31)

10月22日(土曜日)午後1時から、王宮前広場にタイ国民が集まって「国王讃歌」を斉唱するので、是非とも行ってみたらと勧められたが、午後3時から洋服の仮縫いが入っていたので、時間的に難しいと判断。そこでテレビ中継で、全体の俯瞰図を見た。
ある老人は100バーツ紙幣を掲げ、国王に別れを告げている。恰幅のいい40代の男性は千バーツ紙幣を頭上に掲げている。彼の表情は国父と息子との関係をうかがわせるに十分であった。顔に年輪を刻んだおばあちゃんも小さな体で哀悼の意を表している。15万人が集まったということであるから、一人一人の表情を文字に書き残そうとすると、数年はかかる。
プミポン国王は王宮前広場に建設される葬儀のための宮殿をどうか決して派手にはしないでほしいと言い残されたそうである。世界に類を見ない在位70年の国王。御みずから最期の最期まで、国民に対して合理的考え方の模範を示された。

哀悼のタイ王国(30)

次はBTSに乗っていた時の話である。
中国系のおばあちゃんが私と一緒にサイアム駅から乗り込み、たまたま隣りどうしで座った。小さな身体を黒い服で品よく決めている。彼女が私に突然、話しかけて来た。「มาจากไหน」
「どこから来たの?」と尋ねられたから、私はすかさず「日本からです」と答えた。
すると、彼女の声の調子が変わった。「ちがう。向かい側に座っているあのファランの連中のことだよ。よくもあんな色物の服を着て。一体、何と思っているんだ」
彼女は誰かと怒りを共有してほしいらしく、タイ人だとばかり思っていた私にどんどん話しかけて来た。私が丁寧に応対したものだから、そのうち、彼女の家族の話にまで発展して行った。
「私の娘はね、日本に留学して、そのままずっと日本に住んでいるんだよ。医者をしている日本人と結婚。今は京都在住」
彼女の顔は怒りから、いつのまにか齢を十分に重ねた品の良いおばあちゃんに戻っていた。

哀悼のタイ王国(29)

10月20日はプミポン国王が崩御されてから一週間ということで、初七日の行事が執り行われた。全てのチャンネルが、午後6時以降、一斉に切り替わり、御棺が祭られている部屋を中継した。高位高官が公務員の正装である白服に喪章をつけて座っている。その一番最後に、看護師達が数人いた。おそらく国王の最期のお世話をしたシリラート病院の看護師長達であろう。
王族達がお座りになる席は別の一角に設けられている。シリントーン王女のお顔の表情は悲しみそのものであった。何かにじっと耐えておられる。愛する父に向かって、今後のタイの行く末を問いかけておられるようにもお見受けした。
毎晩、テレビ中継されているから、祭壇の部屋の様子や僧侶達の読経には次第に見慣れてきた。しかし、シリントーン王女の御姿だけは何度、拝見しても心がうたれた。特に、祭壇の間に入って来られた時、他の王族達は祭壇の正面に設えられた黄金色の坐椅子に膝をつき、黄金色の小机にこうべを垂れてお参りしたが、シリントーン王女だけは違った。毎回、祭壇横の床に直かにひれ伏してお参りをされた。
亡き父に少しでも近づき、永遠の別れをしている王女の御姿は、私の瞼に焼き付いた。父と娘。そこには誰も入り込めない愛の絆が有るに相違ない。

哀悼のタイ王国(28)

10月21日(金)、ホテルの近くで新聞と果物を買い、部屋に戻ると、すかさずテレビをつけた。タイの人々の国王に対する気持ちを少しでも聞きたかったからだ。
チャンネル3の合同追悼式が会社の正面にある広場で行われている様子が中継された。前列に並ぶ人達は有名な俳優やキャスターであった。涙をぐっとこらえた男優の顔…。涙がひとすじ流れている女優の顔…。
200人位のスタッフが社長や取締役とともに国王讃歌を合唱し、そのあと、大地に全員がひれ伏した。軍隊にも負けない統率力が感じられた。
私が一番驚いたこと、それは、司会進行を担当している女性アナウンサーが、一言もかまなかったことだ。国王の御名前は肩書も入れるとものすごく長い。そして、発音が難解だ。いくらプロといえども、一回くらいはとちるかなあと思ったが、完璧であった。そして、彼女の落ち着いた声の調子は国民を代表して、哀悼の気持ちをタイ国全土に永遠に伝え抜くかの感を呈していた。

哀悼のタイ王国(27)

パラゴンからサイアムスクエアへ移動し、昨年からオープンした新しい商業施設へ行った。女子高校生達が黒いリボンを配っている。その光景は日本で赤い羽根を売っているものと同じであった。赤ではなくて、黒であることが悲しい。
サイアムスクエアにおける人の往来が少ないことが気になった。新しい商業施設の5階6階には日本食のレストランも入っている。そこで丸亀製麺に入ってみた。客は一人だけしかいなかった。店内はがらがら。これで商売は成り立つのであろうか? 冷やしうどんを頼んだ。70バーツ。前日に食べたセンミー(40バーツ)のほうが美味しかった。
今年2月に髪をカットした美容院(3階)を外から眺めた限りにおいては、美容師達がそこそこ忙しそうにしていた。2階にあるおしゃれなカフェ・レストランにはだんだん人が入り始めていた。夕方が近い証拠だ。タイ人は大勢の仲間が集まって食事をするのが似合う。一人淋しくうどんをすするのは似つかわしくない。

哀悼のタイ王国(26)

10月21日(金)、王宮での記帳を終えて、サイアム駅まで戻って来た。パラゴンに入ると、レストランやカフェが有る2階には若者が大勢いて活気が感じられた。しかし、洋服を売っている階へ上がって行くと、人はまばらであった。
そこへ行った理由は黒い服を買うため。翌日、昔のタイ人講師と20数年ぶりに会う約束があったので、新しい服装で会いたかったからだ。チャオプラヤー河の水を浴びた服を手洗いしても、おそらくきれいには仕上がらないであろうと判断したためである。
絹製の黒い長袖ブラウスが気に入った。だが値段はものすごく高かった。東京の有名デパートの値段と変わらなかった。買うか買うまいか、しばらく迷いに迷った。だが、不景気に陥ったタイ経済に少しでも貢献しようと思って大枚をはたくことにした。
そして、もう一つの理由は、この黒服を見ると、プミポン国王のことをいつまでも思い出せることになるからと考え、自分に指令を送って買った。

哀悼のタイ王国(25)

王宮前広場を取り囲む散歩道にはたくさんのボランティアがいて、タイ料理をふるまっていた。地方からバンコクに来た(เข้ากุงเทพฯ)人々には空腹を満たすのにもってこいの場所だ。私は並ぶのがいやだったので、アイスクリームをもらい、タイ人の観察をした。皆、黒服を着ているが、喪服ではない。普段の気持ちそのままで国王に別れを告げに来ている。それがいい。
食べる表情には屈託がない。すぐ近くにはトイレバスが数台、用意されているから、いくら食べても、そして、いくら飲んでも心配がない。警備にあたっている警察官の顔も優しさに満ちている。
マッサージをしているブースの前でマッサージの技術を見ていると、「あなたも並んだらどう?」と言われた。後ろに敷かれたござに目をやると、たくさんのタイ人が座り込んでいた。
私は民主記念塔(อนุสาวรีย์ประชาธิปไตย)近くまで歩いて、タクシーをひろい、パラゴンへと向かった。