「豊」という漢字

昨日、仕事と仕事の合間に豊川稲荷に行った。十分なる時間が有ったので、靴を脱いで本殿に上がり、僧侶達の読経を聞いた。そして、境内の中にある数々の小さな社(やしろ)に手を合わせた。
 そして、明治3年創業のおいなり屋さんが豊川稲荷の境内のはずれで70年間もおいなりを売っていることを知り、そのおいなりを買って、境内のベンチで座っておいしくいただいた。おいなりを売っている老女の頭は明晰。おつりの計算も手さばきも実に早い。
 ところで、豊川稲荷をお参りして日頃からの謎(簡体字の由来)が解けてうれしかった。それは、「豊」の漢字の繁体字が大きな文字で書かれていたからである。「豊」の簡体字は、「三の左上から右下へ\を書き入れる」。草木が生い茂る様を表現しているそうだ。それを「山」の内空間の二つに入れ、山の下に「豆(注:上が膨らんで脚の長い大きな器を表わすとのこと)を書いた漢字になっていた。現代では、上部が「曲」になっているが、いずれにせよ、繁茂して旺盛である意味なので、実にめでたい。

パック君 再登板

ティウ先生が本帰国のため2月末でお辞めになった。その後、タイ語教師を探していたが適任者がみつからなかった。したがって、現役の先生のコマ数を増やしたり、私が教えたりして3月を乗り切った。
 4月以降もこの体制で行こうと思っているところへ、先週、パック君(東京医科歯科大学博士課程)から1年半ぶりにラインが入って来た。「今年はいつでも教えに行くことができます」
 そこで、私はすぐに返事をした。「それでは水曜日の18:30のクラスと20:00のクラスを教えてください」
 パック君はとびきり優秀なタイ人留学生だ。頭脳明晰で、さらに態度は礼節そのもの。日本語も完璧。日本の若者が書けない文章を彼はさらさらと書ける。彼の育ちの良さも抜群。
 生徒の皆さん、彼からたくさんのことを吸収してください。

杖の長さ

骨折してから約半年。先月までは、再度、転倒しないようにと自分に注意を促すために杖を使って歩いていたが、最近は歩く意欲がわいてきた。もう杖は不要だ。
 しかしながら、いつなんどき、どういう場面に遭遇するかもしれないので、折りたたみ杖を新しく購入し、カバンにひそませている。
 現在、私は杖を3本も持っている。退院時に間に合わせに買った杖は百均の杖。2本目はリハビリの先生のお勧めの杖だが、折りたたみではない。3本目の折りたたみ杖は、先月、デパートで買った。
 だが、リハビリの先生は腰骨の高さがいいと言い、デパートの販売員は腕を垂らしたところがいいと言う。その差、10センチ。人の言うことは違うものだ。だが、使っているうちにそれはそれで慣れてきた。
 タイ語の発音表記も、同じ日本人講師であっても異なる。ましてや、タイ人をや…..。要は、いかに自分にとって最適なところを見つけ出すかということに尽きる。

灌仏会(花まつり)

昨日、タイ人を案内して雑司ヶ谷の鬼子母神へ行くと、甘茶がふるまわれていた。4月8日はお釈迦様の誕生日。即ち、「灌仏会」であった。
「天上天下唯我独尊」の御姿の童子に、参詣者が次から次にやさしく甘茶をかけていた。我々も従った。小さな御堂の屋根には春の花々がたくさん乗せられていた。いずれの花びらも美しかった。
 とても清々しい気持ちになっている丁度その時、タイからラインが入って来た。タイの友人夫妻からであった。喧噪のバンコクから離れ、深い森の中で瞑想をしているとのこと。「มาถือศีลในป่าครับ」
 新学期、新年度が始まり、緊張気味の我々。そろそろ疲れが出始めているはず。体調を整え、精神を落ち着かせよう。それには甘茶を飲むのがいい。

千客万来

今年の1月から3月まで、これまでになく多忙をきわめた。仕事ではなくて、来客の接待と冠婚葬祭、それに、旧知をあたためる会合がたくさん有ったからである。
 無事に乗り切れたと思いきや、4月に入っても国内外からの来客が絶えない。千客万来!
 昨夜、30年前の生徒から電話が有った。「先生、覚えていますか。大東文化大学時代の太郎君が帰国中です。今、僕と一緒に食事をしています。突然ですが、先生、お時間取れませんか?」
 もう夜も遅かったので、太郎君とまずは電話だけで話した。大学時代にアメリカへ移住し、現在はカナダのカルガリーに住んでいること、40歳を過ぎて飛行機技士の資格を取り、快適な生活を送っていることを報告してくれた。そこまで聞くと、是非とも会いたくなった。なんとかして時間を見つけなくては…..。

断簡零墨

『ある運命について』(司馬遼太郎著 中公文庫 1987)の中に「私にとっての旅」という随筆が所収されている。冒頭を引用すると、こうである。
 私のたのしみというのは、毎日、書斎でうずくまっていることらしい。杜子春が辻で人を待っているように、断簡零墨(だんかんれいぼく)を見、やがてそこから人間がやってくるのに逢う。むろん、無数の場合、逢いぞこねてもいる。いまだにやって来ぬ人もいる。旅には、そのために出かけるようなものだ。
 断簡零墨とは、文章の断片を意味するとのこと。四文字熟語は格調が高い。上手に使えば教養が有るように見える。そして、粋でもある。
 横文字の外国語も大いに勉強しなければならないが、漢字の勉強も大切だ。

選り取り見取り

先日、「よりどりみどり」という豆菓子をいただいた。大阪に在るピーナッツの会社の詰め合わせだが、いかにも大阪人らしいネーミングだ。
 <よりどりみどり>を漢字で書くと、<選り取り見取り>と書くそうだ。いろいろな形をした豆が袋の中にたくさん入っていて実に楽しい。
 人生も選り取り見取りならいいが、実際のところは小さい頃から決められたレールに追いやられ、そのぶんストレスを感じながら、一生が終わる。だが、選択肢はいくらでもあるわけだから、いかに自分に適合したものを選ぶかが大切。
 豆を一粒一粒、口に放り込み、カリカリと音を立てながら、いろいろな人生模様を考えてみた。私の場合は23歳でタイと出会い、そのままタイ街道を歩いて来たが、仏陀の御加護をいただき幸せだ。

活気あふれる高田馬場駅周辺

4月上旬(ต้นเดือนเมษายน)を迎えると毎年(ทุกปี)のように書いているが、今年(ปีนี้)も高田馬場駅周辺は活気にあふれている。今年の早稲田大学への入学者は9千人。JRを利用せず、地下鉄東西線で通学している学生も多いであろうが、この入学時期は駅前広場がとてもにぎやかだ。昨夜(เมื่อคืนนี้)も授業が終わって9時過ぎ(3ทุ่มกว่าๆ)に駅のホームに立っていると、学生達が盛り上がっている声が聞こえてきた。新入生歓迎とサークルの勧誘であろう。
 これから東京で学ぶ学生達。刺激的であろう….。北陸新幹線が出来てからというもの、石川県や富山県の高校生達が関西圏よりも東京を目指す傾向にあるそうだ。諸県出身の学生達が交流すれば、その中から一生の友が見つかるにちがいない。

折り紙が出てくる自販機

今朝5時半過ぎのNHKニュースで次なる話題が報じられた。愛媛県の山あいの過疎地において、よろず屋の奥さんがタバコの自販機を再利用して、丁寧に折った折り紙の作品を1個10円で販売したところ、子供が喜んでいる、という話である。よろず屋の向かえの家のおばあさんが「タバコの自販機の電気が消えてさびしい」と言うのを聞いて、奥さんもそれに同意。子供がはしゃぐ声を聞くだけで嬉しいそうだ。
 東京は光だらけ。騒音だらけ。人、人、人。そして、そこかしこに自販機が有る。無機質な都会だ。外国人客向けに、いろいろなグッズも自販機で買えるようになっている。なんでもポンポン買えるから、喜びの感覚が鈍化してきているような気がしてならない。
 自販機から落ちて来る物を待つのではなくて、自販機に入れるアイディアが浮かぶといいなあ。

花知鳥待花

 昨日の御茶室にかかげられていた御軸は「花知鳥待花」。その意味は、「鳥は花を知り 花は鳥を待つ」。だが、漢字の並びから読むと、「花は鳥を知っている。鳥は花を待っている」である。
 したがって、この五つの漢字は、「花は鳥が飛んで来て受粉を手助けしてくれるのを知っているから、鳥が飛んで来るのを待っている。鳥は鳥で花が咲くのが楽しみだから花が咲くのを待っている」と解釈したほうがよろしいそうだ。茶席においては、「花」は客人、「鳥」は亭主を比喩しているとのこと。
 では、これを「和知泰待和」というふうに漢字を置き換えてみよう。「和」は日本人、そして、「泰」はタイ国。タイが大好きな日本人はタイが待っていてくれる。タイはタイで、日本人を客人としていつでも歓迎してくれる。そのためには、タイ語を頑張ってマスターしよう。