大学時代の寮監の葬儀に参列したのは平成最後の4月末であった。その際、敬虔なるキリスト教徒の友人も参列。葬儀後、彼女は言った。
「最近、英語で説教をしてくれる教会へ行っております」
それを聞いた私は、英会話の勉強の一助にしているのかと思った。だが、そうではなかった。
「日本語でお説教を聞いても、あまり新鮮味が感じられなくなりましたので」、彼女。
キリスト教は西洋から日本に入って来たものである。先達が数百年をかけて日本語に翻訳してくれた。所詮、翻訳文だといわれれば反論できない。
だが、もしも聖職者である牧師さんの日本語が通り一遍のものになってしまっているのであれば、それは由々しき問題だ。反対に、聞いている信者の心が何かの要因で感動しなくなっている場合も考えられる。英語での説教をずっと聞き続けていると、これまたいずれは飽きてくるかもしれない。
要するに、年月を経れば、自他ともに曇りが生じるものだ。そのことに気づき、常に磨きをかけることが肝心。