旧仮名遣い と 旧漢字

昨日、宇野千代(1897-1996)の『幸福』(株式會社文藝春秋 1972)を読んだ。旧仮名遣いと旧漢字がちりばめられており、時代の匂いをかいだ思いがした。一節を以下に抜粋する。
 「一枝はかうして、幸福のかけらを一つ一つ拾ひ集める。自分の周圍にそれを張り遶らして生きてゐる。人にはをかしく思はれることでも、自分では幸福と思ふやうにした。一枝は五年前に良人と別れた。そのとき、別れるのを辛いと思はないやうにしたいと思つた。一枝は自分でも別れるのが好いと思ふやうにした。良人が荷物をまとめてゐるのを、何となく手傳つたりした。それが自然に出來たと思ふ」
 かつて、明治生まれの女性が書いた自伝原稿を、ワープロが出始めた時に、ワープロで打ち込んでさしあげましょうと、口約束したことがあるが、私は旧仮名遣いと旧漢字に悩まされて、ついに完成することができなかった。とにかく読みにくかったのだけは今でもトラウマの如く覚えている。